交易レボルーション 交易革命 ハンザ 皇帝の夢と現実

ハンザ同盟とは

中国侵攻

1600

 航海技術の進歩により、インドよりも東の航海が可能となったハンザは、1560年代に中国大陸を発見した。  中国市場の独占を狙ったハンザは、1570年頃に明国を侵攻した。  開戦当初に制海権を奪ったハンザが、海上封鎖をしたために明国だけでなく、朝鮮や日本の交易も混乱した。  交易の混乱が朝鮮や日本の介入を招き、これらの国がお互いに争うようになった。  まず、制海権を失い、堺の港が艦砲射撃で廃墟になった日本が、経済の混乱を起こして脱落した。

1650

 さらに、陸海の戦力が壊滅した朝鮮が、脱落した。  約50年間にわたる戦争の末、ハンザが中原を支配し、明国は西域に逃れた。  一連の戦争は、1570年から1620年まで、何度かの休戦をはさんで行われている。  ハンザの兵力は、1570年頃には、1万とも2万とも言われているが、1620年頃には、4万人程度いたと言われている。  明国の兵力は、開戦当時には、8万から12万程度いたと言われている。

中国は富を生むところではなく、富を吸収するところだ

 この言葉は、1600年代半ばの財務官の嘆きと言われている。  ハンザの国庫に溜めていた10,000ダカットの資金が、1570年から始まった中国進出で消えたと言う。  戦争の経費よりも中国の支配に関する経費が膨大であったと、この当時の財務諸表を研究した研究者は主張している。

 

同化政策

文化

 中原の同化政策には、ドイツのサリカ法典が大きく影響していると言われている。  サリカ法典では、女性の土地相続を禁じている。この法典を根拠に、当主が亡くなった場合に、男系の親族が、寡婦や遺児(男子がいる場合もあった!!)から土地や家屋を取り上げることが、頻繁に起こった。  これらの寡婦や遺児は、生業や住処を奪われるため、容易に浮浪者になった。  ハンザは、中原でのドイツ人が不足していたため、寡婦は中原に進出したドイツ人の家政婦や子守などに、遺児は教会や学校で読み書きなどを習得させ宣教師や学校の教師として赴任させる政策を採った。  そのため、土地や家屋を奪う側も、逃げ込む場が存在しているため、サリカ法典による収奪を促進することとなった。

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