1482年に新しい組合長に就任したコンラートは、悩んでいた。 フランス・カスティーリャ・オーストリアなどの大国だけでなくマゾヴィア・ホラント・チューリンゲン・ヘッセンなどの中堅国すら独自に交易の中心地を設置するなど、ハンザ同盟の地位は日に日に低下している。 このまま、バルト海交易だけを続けていても、先細りは目に見えている。何か打開策が必要である。 ハンザ同盟の総会が間近に迫っており、何か新しい案を出さなければ、同盟から離脱する国も増えていくだろう。
ハンザ同盟の総会が開催された。 各都市から参加している出席者の中には、ハンザ同盟からの離脱を明言するものも多数いた。 コンラートは、会議の冒頭で「新たな外に眼を向けよう」と提案した。 すでに、ハーガンを隊長とする探検隊を結成しており、リスボンを調査の基点とする了解をポルトガルから得ていた。探索先もイベリア半島の先のアフリカと決めており、参加者のほとんどは、途方もない提案に驚き、自らのハンザ同盟離脱を提案することを忘れてしまった。
アフリカの調査を提案したコンラートは、在位3年で亡くなってしまった。 あとを継ぎ新しい組合長になったオスカルは、毎年行われるハンザ同盟の総会で、探検隊が行った調査を報告していた。 1486年にアフリカをずっと南下していた探検隊は、ついに北に向かう航路を発見した。 この地を発見したハーガンは、その地を喜望峰と名づけ意気揚々と帰還したが、岐路の途中で嵐に遭い遭難してしまった。 喜望峰の報告は、ハンザ同盟の総会で大々的に行われたが、大きな問題点が残った。 現在のキャラック船では、リスボンから探索を行うと、喜望峰の先の辺りが、探査の限界となり、中継基地を探すことが必要になってきた。 2代目探索隊のアーダベルトは、中継基地を探すために、沿岸沿いの部族などに交渉を行ったが、ペナン・アシャンティーからは、許可ではなく、槍を投げつけられる始末であった。それでも、1488年に喜望峰の先にある東アフリカでスワヒリ族と遭遇し、彼らに寄港の許可を得た。 これにより、さらに先の探索が可能になった。
寄港地の確保で、非協力的だった部族などを対象に、懲罰的な意味をこめた制圧隊を編成した。 アシャンティーやムタパなどの部族を襲撃し、2,000ダカットのお金を国庫に納入することができた。 これにより国庫に余裕ができたので、技術革新による新造船であるバーグ船を2隻建造する費用が捻出できた。
ハーグ船により、これまでよりも、長期間の後悔に耐えることができた探検隊は、インドを発見し、さらに奥の探索をすることができた。 さらに奥に進むと、あこがれの黄金の国ジパングを発見した。 この発見により、アフリカ経由のインド航路が確立することになった。 たぶん、イスラム商人たちが後ろで糸を引いていると思うが、インド人たちは商品の購入は認めるが、商売には参加させないと言う姿勢を貫いた。 そのため、胡椒などの産物は、現地の販売価格よりも非常に高価で売りつけるなどインドまで買い付けをしても、利益が出ない状態であった。 制圧隊の派遣を検討したが、かの国の兵力は強大であり、手が出せないままであった。
ハンザのアフリカ航路探索隊がリスボンに帰ったころには、西回りのインド航路が発見されたと言う噂で持ちきりであった。 その噂話をまとめると、「発見したのはカスティーリャらしい」、「「距離は、バルセロナからアテネまでよりも近い」と言うようなものであった。 噂はハンザ同盟の参加各都市にも広がり、ハンザ同盟の総会でハンザが西インドを探索するよう提案が出た。 そのため、アフリカ探検隊は、母国に戻ることなく西インドの探索に向かうしかなかった。
西インド航路探索の中継基地は、アフリカ航路のときと同じくリスボンであった。 探検隊が西に航海を進めると、未知の大陸とイングランド国旗を掲げる艦船を発見した。 カスティーリャだけでなくイングランドも、西回り航路の探索を始めているらしい。 発見した大陸を調査したところ、未開の野蛮人の集落やそれに毛が生えた程度であり、アフリカ探索と同様であった。 少なくとも、インドやイスラム、日本は、もう少し文明化されており、交易の可能性は十分考えられるが、彼らと交易をすることは不可能である。ハンザ同盟諸国は、カスティーリャやイングランドほどの人口もなく、かの地に植民をするメリットも少ない。 そう判断した探検隊は、報告書をまとめ、早々に帰国した。 アフリカの探索から働きづめであり、故郷が恋しかったのが、早めの決断の理由だったのは、探検隊の隊員内の秘密として隠された。 [[交易革命 ハンザ ]] 交易レボルーション