マルクスはハンザ同盟の組合長に就任すると、ボヘミアとポーランドをハンザ同盟に加盟させた。 これから、ハンザ同盟加盟の調印式をするのだ。意気揚々と調印式の行われる大ホールに向かう途中、イギリスから帰ってきた密偵から連絡があった。イギリスが、ハンザ同盟からの離脱を宣言したのだ。 これまでの封建社会が崩壊していく状況は理解していた。各王家が王権を強化し、自国商人を優遇する重商主義を推し進めていく流れも理解している。 もうじき調印式が行われる。調印式の相手に、悟られるわけには行かない。「これからは、これまでの様にはいかないようだな・・・・」そう呟き、気分を一新させることにした。
イギリスが通商同盟から離脱 ボヘミアとポーランドが通商同盟に加盟
バルト海から北海に出るには、エーレスンド海峡を通過しなければならない。 この海峡は、狭い場所では幅7kmほどしかなく、冬には凍結し、徒歩で海峡を渡ることもできた。 デンマークは税収の確保とバルト海の商業を含む制海権を握るために、この海峡を通行する船舶に通行税を設けると周囲に宣言をした。 この通行税は、バルト海と北海にまたがる貿易を行う商人にとっては、迷惑以外の何者でもない。そもそも、この海峡を通行する船舶のほとんどは、商人達である。国に所属していない商人に、国家が勝手に税金をかけてきたのである。 このような暴挙を許せば、こんどは、寄港先の港で停泊税をかけてくる国家が出てくるかもしれない。商人の利益を守るハンザ同盟として、このような前例を承認も黙認もできない。 しかし、表立って反対し、デンマークと事を構えるだけの武力を持っているわけではない。 マルクスは悩んだ末に、物価の値上がりが予想されるスウェーデンやデンマークの有力貴族などに賄賂を渡し、裏工作を行った。さらに、ホルシュタインのデンマーク併合についても黙認した。 「通行税に比べれば、安い買い物さ」 そう言ったかどうかは不明である。
ミッション:「エーレスンド海峡通行税の撤廃」 デンマークに贈り物を続け、友好度を190にしてクリア
事実では通行税は1429年から徴収されている。
同盟都市のリガから、援軍の要請が来た。 相手は、同じ通商同盟のチュートン騎士団である。 リューベックには、黄金は数え切れないほどあるが、人間は数えるほどしかいないのだ。チュートン騎士団と相手をするだけの常備軍もない。ハンザ同盟としては、形だけの救援の軍隊を用意させる以外の方法は無かった。 「身内で争う時代ではないのだがな。」 窓から海を眺めながら、そう呟いた 1403年 リガ滅亡
1416年にポーランドからもたらされた宣言は、全ヨーロッパを震撼させた。 ポーランドが同君連合を発展的に解消する。つまり、直接統治を行うと言うのだ。 それも、1カ国で無く2カ国、小国でなく、片方は中堅国家である。 バイエルンとマイセンがポーランド王の直轄領となったのだ。 マルクスの予感どおり、15世紀は波乱の世紀となりそうだ。
1431年7月、亡くなったプロバンス伯の後継をめぐりブルゴーニュとオーストリアが後継者を主張し戦争を始めた。 そのブルゴーニュに、ライバルのフランスが、背面から戦線を布告した。 挟撃で危機に陥ったブルゴーニュは、イギリスとアラゴンを炊きつけ両国にフランス参戦を呼びかけた。 翌8月には、ゴットランドの領有をめぐり、デンマークとスウェーデンが戦争を開始した。そのデンマークに、ロシアが単独で、戦線を布告した。 ハンザにとっては、東西南北すべての国が、それぞれの思惑で、連携も無く戦争を開始したのだ。 これらの戦争は、英仏の戦争を除いて34年5月に終結したが、オーストリアは、ボヘミアとともに、ヴェネツィア。クロアチア連合と戦争を開始した。 人の欲は、際限なく続くものらしい。
36年5月にメクレンブルグから、恐るべき報告が届いた。 メクレンブルグの領主が亡くなり、遠縁のデンマーク王が地位を承継したのだ。 これで、ハンザは北だけでなく東もデンマークと接する形となったのだ。
1442年3月にハンザ同盟を永くに渡って率いてきたマルクス・ローゼンダールが亡くなった。 2代目の組合長にはマルティン・マイヤー・フォン・オラニエが継ぐことになった。 ここ50年で、ヨーロッパ各国は王権の強化に動き、強国のほとんどが自国に交易の中心地を設置するようになり、ハンザ同盟の交易額は最盛期の半分まで落ち込むようになった。 また、隣国のメクレンブルグはデンマーク王が同君連合として統治することとなり、デンマークの圧力がだんだん強まってきた。スウェーデンだけでなく、ノルウェーとも同君連合を解消したデンマークは、スカンジナビア半島での勢力拡大をあきらめ、南下政策を採っている。 権益の確保とともに、難題の多い船出となりそうだ。
44年5月にビザンチン帝国がオスマン帝国の猛攻を受け滅亡した。 ローマ帝国の東西分裂からすでに1000年。統治者は変われども、東ローマの名前を引き継ぎ、権威にしがみついていたが、イスラムの力の前には無力だった様だ。 新しい時代の幕開けとなりそうだ
54年2月に、バルト海交易の要衝として知られるゴットランドの領有をめぐり、スウェーデンとノルウェー・デンマークが激突した。もはや、バルト海といえども、武力ではハンザは足元にも及ばなくなっているのだ。 この戦いでは決着がつかなかったため、王権の強化を狙ったデンマークは南のブレーメンに侵攻した。 ブレーメンは、ハンザ同盟の中心地リューベックの真西の都市である。ここがデンマーク領になれば、東のメクレンブルグとともに、東西をデンマーク、北もデンマークと包囲されてしまう。 ブレーメンと協力し、デンマークを迎え撃つことにした。 メクレンブルグを制圧し、ユトレヒト半島を侵攻して行ったが、デンマークとの海戦に破れ、お互いに手出しができない状態となった。 結局、3年に渡る戦争は、海を挟んでにらみ合いを続けるだけ、ブレーメンがホルシュタインを獲得しただけで終わってしまった。 「ハンザが海で負けるとは情けないものだな・・・・」 この後、ハンザは20隻を超える海軍を所有するようになったと聞く。
1470年現在の地図である。 西は、フランスが、ブルゴーニュを下しフランス本土の統一をほぼ手中にしている。 南は、オーストリアがロンバルディアを押さえ一大勢力となっている。婚姻でなくても、オーストリアは強いのだ。 東は、モスクワ公国と、ポーランド・リトアニア連合国の戦争で疲弊した国民が暴動を起こし、さまざまな国家に分裂した。マゾヴィアだけでなく、いろいろな国家が覇権を争う群雄割拠の時代になっている。 北では、カルマル同盟は完全に破壊してしまっており、スカンジナビア半島は大部分がスウェーデンに、暖かい南の部分には、この地域での商圏確保を狙いカスティーリャが進出している。デンマークは、バルト海交易の未来と同じくらい斜陽になっている。
1470年 度量衡統一