モンゴル再興 ~DWモンゴル汗国で世界帝国~

新たなる時代の扉 1571年 11月

リグダン・カーン。 18際の時に父オゴデイ・カーンの急死を受けモンゴル帝国のカーンになって以来、30年の月日が経とうとしてた。 50の齢を重ね髪にも白いものが混じるようになった大帝国の王は 帝国中からはせ参じたモンゴルの将軍たち、中華の文武百官、中央アジアの族長達を宮殿の玉座の上から睥睨していた。

ついにこの時がやってきたのだ。 安定度は最高となり、西欧化へのすべての条件が満たされた。 リグダン・カーンは、帝国技術を西欧式に切り替え、新たな技術から生活様式に至るまで取り入れるようモンゴル帝国全土に通達を出す。 いわゆる技術の西欧化である。 ついに西欧諸国と同じ土俵に立つことができたのだ。 いずれモンゴルの民がパオの中でバロック音楽を聞き、中華の民は北京の茶楼でチェスをたしなむような生活に切り替わっていくだろう。

西欧化による技術ボーナスはすさまじく、みるみるひと桁だった技術レベルが上がっていく。 これほどの大国であっても、今までは月に60ダカットの投資しかできなかったが、 これからは技術ペナルティも無く100%になるうえに 毎月全技術へそれぞれ+100ものボーナスがつく、すなわち毎月560ダカットの勢いで全技術が上がっていくことになる。 つまり技術習得速度が10倍以上になったということだ。

モンゴルの未来についに光が差し込んできたのだ。

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毎月全技術へ+100ものボーナスがつく。待ちに待ったこの瞬間

軍の近代化を目指して

とはいえ、まだまだ安心できる状況ではない。 軍の近代化はまだこれからの課題だ。 ロシアより西に侵攻することことが難しい現状では、最優先事項といえるだろう。

さらにこれが終わらなければ中央集権、革新に寄せきったために生じている凄まじい反乱ペナルティを解消できない。 遊牧民の心(政体)を持ったまま、技術と軍制のみを西欧式に切り替えるという壮大な実験が、いままさに最終段階をむかえつつあった。

神聖ローマの東進 1572年

西欧化を祝う祝宴のさなか、急報を告げる伝令がカーンの宮殿に駆け込んでくる。 遊牧民の土地に植民を続けつつ東進するボヘミア王国が、スンニ派タタール族の遊牧民、カザン族の最後の支配地域を完全に滅亡させ、 ついに我らがモンゴルの支配地域と接触するに至ったという。

スウェーデン王国との間にスモレンスクをあえて残していたように、 モンゴルの民は必要以上に大国と接触し不用心に戦線を拡大しないようにいわゆる「壁」をつくる。 その壁を相手の方からぶち破ってきたのだ。

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ついにカスピ海北岸に進出するボヘミア王国。もはや戦いは避けられない

急ぎロシア方面軍団を再編成、対ボヘミア方面であるカスピ海北岸へ馬を走らせる。

この大平原はかつてモンゴルが西欧連合軍を壊滅させた歴史が残る地。 モンゴル軍の本領が発揮できる地だった。 もしボヘミア王国やその周辺が団結しているならきっと苦戦を強いられたに違いなかったが、 事実はその逆だった。 ボヘミアはポーランドやその他周辺諸国との覇権争いに総力を注いでおり、東の地に展開できる兵はほとんどいなかった。 いくら武装に100年の違いがあるとはいえ、ボヘミアのロシア方面軍は1万そこそこであり、 一方モンゴルは6万の兵を展開できる。

たちまちのうちにボヘミア軍を粉砕、クリミア半島周辺、黒海沿岸を蹂躙しつつ東欧の大平原を西へ西へと駆ける。 ハンガリーやポーランド方面と接するころにはボヘミアから和睦の打診する使者が訪れた。

クリミア半島まではタタール文化の土地、すなわちその盟主たるモンゴルの領地ではあるが、ここは痛み分けで矛を収めるべきとリグダン・カーンは判断する。 いまだ炎のように熱い厭戦感情、さらに軍の近代化を控え安定度コストに負担のかかる領地拡大は良策ではないとの判断だ。

しかし、西欧諸国のうちでは比較的技術が低くとも、情勢がこちらに有利だったとしても西欧の大国に実質勝利できた初めての戦いとなった。

これもまた蒼き狼の時代より続く元朝秘史に書き留められるべき栄光の歴史であろう。


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