ごり押しでシビーリに対し部族間の不和を理由に宣戦布告、 トボルスク洲をシビーリから奪い取り、遂に我らモンゴルは東欧技術国と接触するに至る。 これで西欧化に残る条件は、革新主義あと1段階と君主の行政能力6となった。 イェスン・カーンの行政は5、王子は行政7なので代替わりまで実行は難しい。 武の王、つくづく天命に恵まれないカーンである。
西欧化した時点で政策の制約は+8.0%のペナルティを背負うことになる。 遊牧民であるが故の+5.0%ペナルティも入れると+13%の反乱確率、 果たして耐えきれるだろうか。
その2年後、イェスン・カーンが逝去。 まさかの早世であった。 次代を継いだのはチンギス息子、オゴタイの名を継ぐ、オゴデイ・カーン。 7/4/7と、政治と外交に優れた若きカーンの誕生であった。
彼は少年の時代から父イェスンの推し進める西欧化への施策を目の当たりにして育った。
父は勇猛であったが、けして愚かなカーンでもなかった。 かつて、モンゴル帝国が世界を席巻した時からはや300年の時が過ぎている。 欧州ではマスケット銃や大砲など、この300年の間に革新がすすみつつあった事をイェスン・カーンは知っていたのだ。 だが、モンゴルの戦い方はマングダイによる機動弓騎兵の戦術から何ら進化せず、変わっていなかった。 このままではヨーロッパの諸国に対抗することはできない。 父の遺した偉業、モンゴルの技術革新を成就する事を宣言し、玉座に座るオゴデイであった。
いよいよ西欧化の口火を切る時がやってきた。 しかしその前に中華全土で吹き荒れる反乱の嵐を鎮圧しなければ未来はない。 遊牧民の王の試練はいつもここから始まるのだ。
反乱の最中ではあったが、遂に条件がすべて満たされる。 オゴデイは高らかに技術革新令をモンゴル全土に布告した。 遊牧民の技術効率は10%であったが、これによりイスラム技術化したことで70%にまで一気に跳ね上がった。
同時に安定度-5、安定化費用+50%という重荷を背負うことになる。
なかなか安定度が上がらないなか、 ついに北京の中核化を皮切りに、徐々に華北諸州が中核州化し始める。 過剰拡大の悪影響が消えつつあり、それは同時に南の明、すなわち南明への侵攻の計画を再開するときでもあった。
長きにわたり抵抗を続けてきた南明の皇帝が遂に天命を失い、各地で反乱が勃発。 崩壊の時を迎えつつあった。
それとほぼ同時期にモンゴルは過剰拡大を解消。 遂に明の命脈を断つ時がやってきたのだ。
各地で西欧化に対する抵抗と政策への不満による無数の反乱を抑えつつ、 南西軍を編成。南明に侵入を開始する。
7年もの長きにわたる征服戦争の末、遂に明は中原の土地すべてから追い出される。 雲南をはじめとした数州以外はことごとくモンゴルのものとなり、ついに皇帝はカーンに臣従する。 明は南方諸王朝に対する壁としての役割のためだけにモンゴルの属国として残されることとなった。
130年にも及ぶ明との対立はこうして幕を閉じた。 中華と呼ばれる土地すべては、モンゴルのカーンのものとなったのである。