<先代フリードリヒ1世ヴェンツェル><プレイレポ /A・E・I・O・U><次代>
アレクサンダーは幼少の頃より俊才で知られ、父フリードリヒが政務を顧みなくなると父に代わり摂政として大公国並びに帝国の運営を行っていた。
摂政時代には統一的交易方針の採用や、軍備の一新を行ったことで知られるが、皇帝即位後には時をおかずにパーダーボルンに諸侯を招集し、一般税の施行(神聖ローマ帝国の政策)*1を宣言した。この税の導入に際しては、フランス王やオスマン家の脅威に備えるための防衛費に充てられるという旨の説明がなされていたが、実際にはオーストリア=バイエルン大公国の寺院建設費や工房建設費*2にまで流用されていたようだ。
皇帝としては一般税の導入を図ったが、オーストリア=バイエルン大公としては、度量衡の統一(州の政策)*3を行い、統治の効率化を図った。この度量衡の統一によって、大公国内では各地の交流が進んだが、経済の発展とともに宗教上の乱れも目立つようになってきたため、アレクサンダーは礼拝の義務化*4を布告した。
モデナ公国は、オーストリア大公がローマで戴冠する際にはこれを先導するなど、オーストリアに接近することで発展してきた国である。この時代になると、帝国の南端を守る公国として諸侯の中でも一段高い位置におり、先の皇帝フリードリヒはモデナの公族から后妃を迎え、アレクサンダーを授かっていた。 このためアレクサンダーはモデナ公位の継承権を有していたが、1483年にはこの継承権を大義名分にし、モデナ公国を手にいれんがため兵をイタリア中部へと向けることになる。(モデナ継承戦争) フランス王は当初これに難色を示していたが、フランス王のロートリンゲン公国の実行支配を黙認することと引き換えに、同意を得た。このことでアレクサンダーは帝国諸侯の反感を買うことととなったが意に解さなかったという。 オーストリア=バイエルン軍に国を追われたモデナ公はカスティーリャ王の下へ亡命したが、かの地で憤死したと伝えられる。モデナ公を兼ねることでアレクサンダーは帝国の南半分を有する強力な君主となった。
継承戦争後の1484年。ロートリンゲンの大部分はフランスに奪われている |
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