やや旧い地図。16世紀の政治情勢がよく分かる。
イタリアに都市同盟が結成された。 彼らが団結すれば、 オーストリアの神聖ローマ帝国、 ヴェネツィアの東地中海の商業網、 フランスのヴァロア朝、 スペインの日の沈まない帝国にも対抗できるだろう。
上記の地図を見てもらえれば分かるように、トスカナは南進することができない。 というのも、南イタリアはスペインに支配されているからだ。 それだけではなく、スペインはミラノ(ロンバルディア州とクレモナ州)も領有している。 ロンバルディア州はイタリア建国のために必要な州なので、なんとかしなければならない。
ミラノのナショナリストの反乱。
と思ってると1570年、ミラノで反乱が起こり、反乱軍はロンバルディア州を占領してしまった。 これはいけるかも? と思っていたら、オーストリアがやってきてこれを鎮圧してしまった。
残念。
ミラノのナショナリスト、再び反乱。
1582年には再びミラノで大規模な反乱が起こる。 しかしこの反乱もヴェネツィアの傭兵によって鎮圧されてしまった。
ミラノ公国の独立は遠い。
やはりスペインとはガチで戦争しなければならないかもしれない。
1562年、建国者ロレンツォ3世が崩御されてのち、彼の遺児コジモ2世は幼かったため、トスカナはしばらく摂政評議会が支配していた。
1576年、成人したコジモ2世が僭主として親政を行う。 コジモ2世の治世下でトスカナは統治技術を陶冶し、あたらしく2つのNIを採用することが可能になった。 コジモ2世はまず「官僚制」を選択し、生産効率+10%によって国庫を豊かにする。 また、続くNIは「積極的戦地任官」を選択し、陸軍の伝統+1%によって陸軍の質の底上げをはかる。
コジモ2世は金貨鋳造を惜しみなく行い、おもに生産系建物を領土に建設していった。 彼の治世下でインフレ率は7%に達したが、その後は国立銀行とインフラを抑制する偉人によって、インフレ率はそれ以上増加しなかった。 また、彼は豊富な国庫を背景にして、トスカナの商業網をヴェネツィアからリグーリアまで広げた。
また、コジモ2世はその治世の間、一貫して中央集権を追及した。 フィレンツェやピサやシエナでポンテッリ家に対抗する貴族の権限は徐々に剥奪され、少なくない反乱(僭称者やウルビーノ公の手の者や農民反乱)が起こったものの、コジモ2世はそれらの障害を全て粉砕し、克服した。 中央集権、貴族制、農奴制のスライダーを左に寄せることがコジモ2世の使命だった。このようにしてトスカナ公国は荘園経済主体の君主制が追及され、ポンテッリ家は僭主から徐々に君主として認知されるようになった。 ランダムイベントで他のスライダーの選択肢を迫られたときは、革新性、自由貿易、質重視をはかった*1。これはトスカナが前述したような荘園経済中心の君主制でありながら、開明的で啓蒙的な君主制を目指していたことを示している。 また、軍制改革はコジモ2世の時代でも追及され、ランダムイベントがあったときは陸軍、質重視に振られた。徴兵限界一杯まで陸軍が整えられ、海軍もガレー船を中心にして徴兵限界一杯まで増強された。
1600年にコジモ2世は亡くなった。
[[続く>]]