彼はその日も栄光に輝いていた。
彼の生涯を彩ってきた様々なもの、
枢機卿の紅の衣
ヴァランスの公爵位
教皇軍司令官の地位
中伊の諸地域の支配者の座
加えて、ナバラ王家の姫君、 麗しき妹、 才気の片鱗を見せる後継者である「甥」、
これらはその日も変わらず彼とともにあり、 太陽の光の如き彼の輝きも持続するものと思われた。
その月、彼は自身の影響下にあったシエナ市が代官を追放して 独立の動きを示したことに対しての懲罰行動を計画していた。
その際に予想される最大の障害、 即ちシエナが未だに公式には神聖ローマ帝国に所属していることから、 皇帝が上位の君主権を主張して介入して来た場合の対応について、 永年の同盟者であり、傭兵隊長として彼の軍の傘下ともなっている マントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガと討議することとなった。
そうして1523年の6月2日、 側近はシエナ攻めの本軍の指揮をとらせるために残し、 少数の小姓のみを供としてマントヴァ近郊の侯の陣営を訪う。
―― 彼の栄光はその日突然に終わった。 陣営に到着して後の死に様は伝えられていない。
後に検分された死体には、激しい斬り合いをしたと見えて、 23箇所もの傷跡が残っていたという……。
ウルビーノは二領を有する教皇領の属国。 ナポリ王国は先の戦役にてフランスに征服されている。 また、北伊に目を向けると、サヴォイア公領北部、ジェノヴァ、ミラノがフランス領有下にある。
1502年初頭、ヴァレンティーノ公チェーザレ・ボルジアは、 教皇領内に依然として残る小僭主達を駆逐するべく宣戦を布告した。
教皇軍という御旗を持つチェーザレ配下の軍に対して 小僭主達の軍勢は士気に乏しく、
辛うじて数だけは集積したものの、ローマ近郊での 大規模な会戦で打ち破られた後は各個撃破の的となっている。
これにより教皇領を統一したチェーザレは、 父である教皇アレッサンドロ6世より、 中伊を統べる支配者の称号としてウルビーノ公爵位の叙勲を受ける。
これは教皇領の宗主権を離れたボルジア家世襲のものとされ、 以後の教皇が世俗領奪回を主張してウルビーノ公領を攻撃することは不可能となった。
これらの余りに強引と言える親族登用主義には反発の声も強く、 独仏にてプロテスタント運動が巻き起こる。
あろうことかこれにフランス王ルイ12世その人が大いに加担し、 ついには自ら改宗して統治下の諸地域にこれを強制することとなった。
これによって、強引な征服によりそもそもの統治開始から反感を受けていた上に、 信教までもを強制されたナポリの貴族及び民衆の怒りが爆発し、フランスの支配に対する大規模な反乱が巻き起こる。
既に中伊を統一して半島内で一大勢力を誇っていたチェーザレはこの際の仏軍の領土通行を許さなかったため、 10年前とは異なりフランス軍は中伊経由の陸路で鎮圧軍を派遣することは不可能であった。
脆弱な海軍力しか持たないフランスは反乱軍の勢いに抗しえず、 1512年にはついに反乱軍は正式に独立、 地元貴族、ロッキ家のフェランテを王として戴いてナポリ王国が復活した。
この時期、チェーザレは新たな同盟相手をスペイン*1としている。
これによりイタリアは、
北部のフランス勢力下の諸地域、 皇帝であるオーストリアを後ろ盾にするヴェネツィア、 中部のウルビーノとその影響下にある都市国家群、 南部に復活したナポリ、 シチリアを抑えるスペイン、
以上の勢力が入り乱れるも、互いに牽制しあって小康を得ることとなった。