ビザンチン帝国の復活

1399年10月14日、その日、ビザンチン帝国皇帝 Manuel II世は、大臣らを集めて会議を開いていた。

Elipidosは、大臣の一人である。安定度投資6の特技を持つ統治の達人。他に軍規律+2.0の将軍とインフレ低下+0.02の経済大臣。この三人が皇帝の腹心たちである。

Elipidosは、今聞いた台詞を忘れられなかった。 「オスマン帝国と、戦うですと?」 彼は絶対平和主義者ではない。ビザンチン帝国が生き残るには、トルコ人と戦うしかない事を理解していた。だが、それはあくまで勝てる戦いを、という現実主義者でもある。玉砕の美を求める種の思考とは無縁の男だった。

「その通り」皇帝 Manuel II世は頷いた。 「卿の懸念もわからんでもない。我々は、負けた。負けて負けて、負け続け、ついに栄光のローマ帝国は、帝都コンスタンチノープルのあるThrace地方とギリシア南端のMorea地方のみの小国となった。また負けたら、次は滅亡しかないだろう」 悲しいが、すべて事実だった。

ビザンチンの政治タイプはEmipreである。軍の士気を+0.25する。 しかし、それは名ばかりの帝国。現在は都市国家に近いのが実情である。いや、ヴェネツィアやジェノバのような勢いのある商人帝国と比べるなら、都市国家以下、というべきか。

「だが、それは予の代で終わらせる事にする。今、東方では、ティムールなる男が率いる新帝国がトルコ人と戦おうとしているという。スルタンBayazid I世は、ティムールの軍勢の他に、Dulkarir、Karaman国とも戦っておる。それに呼応して、我々も生き残る為に、最後の賭けをしようではないか」 「……」

 ここでギリシア正教総主教が言った。 「私も賛成です。じつは先日、私の夢の中で主が現れ、異教徒に虐げられているギリシア地方を解放するように、という『神の意志』(ミッション)を告げたのです」

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(このミッションは、INでの新要素であります。このビザンツミッションの場合、ギリシアのJania,Morea,Athens,Salonica,Acheaをすべて取ると、ボーナスで威信10と100ducatsを貰えます。ミッションを次々とクリアしていって張りのあるプレイを楽しんでね、というJohan神の考えなのでしょう)

「ギリシア全土でありますか」Elipidosは絶句した。トルコ人の他に、ヴェネツィア人どもも倒せなくてはならないではないか。 「ふむ。まずはオスマン帝国の欧州側を解放したい予の考えにも合致する。おそらく、その主のお告げは真実であろう。  さて、将軍。我が帝国軍はどれだけ動かせるか?」 「悲しいですが、栄光のローマ帝国軍は現在歩兵1000人です」と将軍の一人は答えた。  皇帝は、悲しげにかぶりを振った。 「……そうか。動員から始めないといけないな。海軍は?」  提督は肩を竦めた。 「ガレー1隻です」  皇帝は、何も言わなかった。言葉を失ったのだろう。次の戦いでは海軍は捨てて考えないといけない。オスマン艦隊は11隻のガレー船を持っていた。

「さて、残る国内政治方針であるが、陸軍主義を強めるように(陸軍+1にスライダ変更)」皇帝は命じた。

そして帝国軍の動員が開始された。 といってもビザンチンのマンパワーは1900しかないので傭兵中心となる。ラテン商人どもに36dacuts借金してMoreaに2000の歩兵傭兵を雇った。

その間、帝国は外交で同盟国を作っていった。

ギリシア半島のアカエア王国、アテネを領するヴェネツィアは不可能だった。その為、北のセルビア王国、ワラキア王国さらに北の大国ハンガリーと同盟を結ぼうと帝国は使者を送った。南北からトルコを挟撃する戦略である。

セルビア王、ワラキア王は応諾してくれた。だがハンガリーからは断られる。そして同盟可能性が不可能(Impossible)になったので、代わりにモンテネグロと同盟した。

どの国も軍1000人のみの寂しい状態。しかし味方がいないよりはマシ……。帝国にとって、厳しい状況が続いた。 スパイが東方に多数送られ、トルコ人とティムールとの戦いを皇帝は注視する。

そして、資金源を得る為に、ビザンチン人らは商業に励んだ。ThraceとVenezia市場に(AI任せで)商人が集中して送られていった。

1400年、ハンガリー軍のボスニア、モラヴィア侵攻は頓挫し、トランシルヴァニア、ボヘミア、オーストリア&ポーランド同盟からも宣戦布告され、袋叩き状態となった。そして何よりも重要なオスマン=ティムール戦争は膠着している。トルコ人は続々と兵を動員して東へ送っているというスパイの報告を皇帝は聞きながら、戦力が整うのを待つ日々だった。

とりあえず南のモレアの部隊と連絡できるようにと輸送船を1隻建造する。といっても戦争中は海軍は全滅を避ける為、コンスタンチノープルに引きこもるしかないだろう。

二度目の借金で60ducatsを帝国は得て傭兵4000をさらに雇う。ビザンチン帝国軍は総勢9000人になった。

皇帝 Manuel IIは再び家臣らを集めて言った。 「長く苦しい準備の日は終わった。いよいよ我々は、賭けに出る事にする。たった9000人で、歴史を変えるのだ」 「まだトルコ相手には苦しいですな」 「わかっている。だが、今ティムールとオスマンが講和をしたら、もっと苦しくなる。今がビザンチン帝国の最後のチャンスだ」 「神よ、我らを守りたまえ」総主教は祈った。

1400年6月27日、ビザンチン帝国はトルコへ宣戦布告(異教徒なのでCB必要なし。これもINの変更)。7000の帝国軍主力は皇帝 Manuel II世自ら率いてオスマン帝国欧州側臨時首都Edirneへ侵攻した。

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出発!

そしてモレアからは2000の傭兵軍がギリシア半島を北上させる。 セルビア、ワラキア、モンテネグロ王らの軍も南下を開始。オスマン西方領全土は一瞬で戦場の地獄と変わった。

そして、さらなる予期せぬ援軍がやってきた。 MacedoniaでGreek Patriot5000人が反乱した。皇帝は、この軍勢も上手く使ってトルコの戦力を削る事を考えていた。

6月18日、Edineの戦いで帝国軍はオスマン軍1000人を一撃で全滅させる(INは戦力差があると殲滅戦が可能となった。戦争でガリガリ減るよ)。

そして2000の兵を分割して北上させ、Burgasを包囲に向かわせる。

ギリシアではビザンツ海軍(といっても1隻の輸送船のみだが)が1000の兵をJaninaへ上陸させた。

が、オスマン海軍主力11隻がこちらへ向かってくるという知らせを地方漁民から聞いた提督は、即座に輸送船をモレアへ避難。間一髪でオスマン海軍との遭遇をかわした。最初の5日撤退できないルールで、出会ったら確実に沈められるか船を生け捕りにされていただろう。

しかし、これでもう陸路で進むしかないので、皇帝はアカエア王に軍通行許可を貰った。ヴェネツィア人にも使者が送られたが、連中は二度も断る。が、アカエアが通過できたらトルコ領ギリシアへ侵攻できるので問題ない。残りの1000の歩兵もギリシア北東のSalonicaへ侵攻した。

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どうみても火事場泥棒です

オスマン軍1000がコンスタンチノープルを包囲したので、皇帝はBurgos包囲軍のうち騎兵を中心に4000を割いて救援に向かわせ殲滅。すぐに包囲に引き帰させる。

1401年、続々と同盟国はオスマン領を落としている。オスマン軍主力はティムールと死闘を繰り広げており、欧州側は放置している。

4月29日、ギリシア愛国者軍はマケドニアを陥落させ、東のオスマン首都へ向けて進軍してくる。その報告を聞いた皇帝は悲しげにかぶりをふった。我々は共闘すべきだが、それは頭に血がのぼった連中の聞き入れるところではない。剣で教えるしかなかった。

同数の兵力とはいえ騎兵を多数揃えた帝国軍の敵では無く、反乱軍は軽く撃退する。今度は彼らはセルビア軍が占領したマケドニアに戻っていった。

5月30日、Edineは陥落した。オスマン欧州領ですでに抑える場所が無い。そこで皇帝Manuel II世は、とりあえず軍勢を帝都へ帰還させていった。

6月9日、ワラキアが資金獲得によってトルコ人に買収された。単独講和である。そこで皇帝は空いたブルガリアへ帝国主力軍をUターンさせて侵攻させる。

7月20日、ブルガリア包囲を続ける皇帝軍の元へ、ついに来るべき知らせが届いた。

「東方の諜者より報告であります。ティムールはトルコ人と講和しました」 使者の報告に、皇帝は顔を顰めた。 「で、条件はどうなのだ?」Elipidosが尋ねた。 「ハッ。オスマンはアルバニアを独立する事を強いられました。それだけです」 「うむ。我々が落とさねばならぬ地方が一つ減ったのは良い。だが――」大臣は溜息をついた。「連中の主力軍が、ここへやって来ますな」 「予想していた事だ。慌てるでない」皇帝は言った。「これからが、本当の戦争の始まりだ。皆の者、ローマ帝国の栄光の為に戦おうぞ」

 だが、すぐにオスマン軍主力9000が首都Edine奪回に向かってきた。  皇帝軍は彼らとの交戦を避けつつ、別部隊が二度目のコンスタンチノープル包囲をしてきたので、撃破する。

 だが、オスマン主力軍もThraceへ進路を変えた。スパイから報告を聞くと、皇帝は即座に逃げようとするが追いつかれ、会戦となった。

川越しの防戦で帝国側が有利なので善戦したものの、ここで兵力を消耗させるわけにはいかないという皇帝の判断から、適当なところで撤退。コンスタンチノープルはトルコ主力に包囲されるが、なぜかトルコ人は包囲をすぐに解いて東へ向かっていった。反乱が東方で起きたのかもしれない。

無事に虎口を逃れた皇帝軍は友軍のSilistria包囲に協力する。

11月5日、ブルガリア陥落。帝国軍はここには1000人しか置いてなかったが、友軍モンテネグロ軍の協力が大きかった。

12月7日、Silistria陥落。しかしオスマン軍主力が向かってくる。ここで皇帝は迎え撃つ事に決める。モンテネグロ王も2000の兵で協力する。 ここで両軍は戦いの雌雄を決する事にした。

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Silistria会戦では、しかし苦戦したので撤退させる。トルコ騎兵4000の脅威の前に、帝国軍は脆かった。こちらの騎兵は壊滅し、兵力は半減した。

帝国はマンパワーが残り900人しかないので、回復はもう、無理だろう。

1402年、敗走する帝国軍はBurgos,Edineでオスマン軍の追撃を受ける。5日して撤退可能になるとすぐに撤退。だが、このまま追撃され続けたら、いずれ殲滅させられる。

だが朗報があった。サロリカがついに陥落した。これで欧州側のオスマン領はすべて帝国とセルビアが占領した。

だが講和は応諾されず。小アジア側へ侵攻したくても、オスマン海軍によってボスポラス海峡は閉鎖されているので向かうことが出来ない。 地中海世界で彼らに対抗できるのは、現在ヴェネツィア海軍のみだろう。ビザンチンでは無理無理ぽ。 皇帝は、オスマン軍との交戦を避けつつ、戦力の回復を待つ事にした。

その間、1402年9月、カザフ汗国と白紙講和に成功する。

オスマンの戦争疲弊は14%になっていた。こちらは0.26%。待っていれば、いずれオスマン帝国は反乱によって崩壊する。その時に講和するのがいい……。

ティムール帝国では新皇帝Babur III世の無能により新領土の反乱が多発していた。早くもティムール帝国は崩壊過程に入ったようだ。ペルシアの誕生は近いだろう。

その間、ビザンチン帝室はセルビア王と婚姻関係を結ぶ。

オスマン軍はマケドニア奪回に向けて包囲戦を続けていた。それを遠巻きに見守るセルビア軍と帝国軍。決戦を仕掛けても負けるのがわかっているので、慎重に奪回機会を伺う。その間に乏しいマンパワー(今、100人しかいない)で戦力回復を図る。

4月、モンテネグロ王はオスマンと白紙講和。残る味方はセルビアのみ。帝国も使者をスルタンのもとへ派遣し講和を何度も試みるが、戦勝点50%だが領土一つだけでも断られる。

6月、セルビア占領のMacedoniaがオスマン側に奪還された。 だが傭兵騎兵1000も雇い、帝国軍は7700人に回復していた。決戦の時である。

オスマンは反乱で崩壊したティムール帝国西方領からErserumを無血奪回していた。これも悪いニュースである。だが、ティムールに叩きのめされたグルジアも勢力回復。数少ない東方教会の仲間なので、婚姻関係を結ぶ。いずれ同盟を結べればというのが皇帝の願いであった。

1403年6月15日、セルビアはオスマンと白紙講和した。ついに戦うのは我々単独のみとなった……。

一斉にオスマン軍は帝国を壊滅させるべく、東西から侵攻してくる。帝国軍はEdineで待ちかまえる事にした。決戦の時である。

10月26日、Edine会戦は帝国の大勝利となった。すぐに追撃する。ここでトルコ人を殲滅しないと帝国は生き残れない。

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Macedoniaで第二決戦。ここでも勝利。だがトルコ人は領土奪回に多方向から同時侵攻してくる。Salonica,Thrace,Edineがそれぞれ1000のオスマン軍によって包囲された。これをビザンチン軍は各個撃破していく。皇帝 Manuel II世は獅子奮迅の働きを見せた。 そして1000の歩兵をMacedonia、Nisの包囲に残す。

ここでようやく、トルコ人も疲れてきて講和で領土を得られる可能性が出てきた。Janina、Salonicaのギリシア2州は確実。だがここでさらにMacedoniaも確保しておきたい。Macedonia包囲の歩兵戦力を増強し、皇帝打撃軍は騎兵のみとなった。

だがMacedoniaで再びギリシア民衆の反乱が起き、不幸にも帝国軍と交戦する事となった。ここで帝国軍はなんとか南のSalonicaへ撃破するが、軍はかなり消耗してしまった。

そしてオスマン主力によって包囲されたコンスタンチノープルを奪回に皇帝は向かうが、敵の戦力は増強されており、こちらの二倍の戦力になっていたので敗戦する。

「もはや、我々は勝てない」  皇帝は軍会議の席で溜息をついた。 「戦力はもうありません。そしてトルコ人はさらなる増強をしつつ、帝都コンスタンチノープルを包囲しています。このままでは帝都の陥落は時間の問題です」  将軍の一人が告げる。 「もはや、やるだけの事はした。トルコ人に講和の使者を送れ」

 皇帝の命により、即座にコンスタンチノープルを包囲しているスルタンBayazid I世の元へ使者が送られた。

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INでは講和成功するか予測できるのが楽です

1404年12月14日、皇帝とトルコ人との妥協が成立した。Macedoniaの代わりにBurgasを確保し、帝国は3州を得た事で、第一次帝国回復戦争を終結させた。この中でも人口2万のSalonicaがおいしい。

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新領土の民衆は通過するビザンチン帝国軍の兵士らを歓呼の声で迎え入れた。すべて反乱率は0%。中核州なのでナショナリズム効果は無い。宗教も同じギリシア正教。帝国の栄光回復に彼らも喜んで協力するに違いない。

生き残った全帝国軍4364人の勇者達は帝都コンスタンチノープルへ帰還した。帝国のマンパワーは177人。軍の回復には長い時間がかかるだろう。

帝国のインフレ率は早くも2.3%になってる事も気にしてはいけない。

その頃、トルコ人は早くもマケドニアの反乱鎮圧に全力を投入していた。彼らの戦争疲弊は20%を超えている。 皇帝はスパイを各地に放ち、オスマン帝国が崩壊するかどうか慎重に見守っていた(帝国の崩壊が見えた場合、講和条約破棄して安定度-5気にしないで即座に再開戦も皇帝は考えていた)。

軍を回復させている間、帝国は周辺友好国と外交を強化していた。モンテネグロ王家とも婚姻を結び、新独立国アルバニアとも同盟。

さらに小アジアのオスマン領も攻撃できるように、グルジア王に軍通行許可を貰う。

交易では、ビザンチン商人達は躍進し、Thrace,Veneziaを5つ確保。拡張したAlexandriaもすぐに5つになった。そこでLiguriaにも進出した。

1405年8月、帝都コンスタンチノープルの東のオスマン小アジア領Bithyniaでは9000人の反乱が起きていた。Bayezid自ら主力を送るが、敗退する。 オスマンの崩壊が始まった。

そして黒海北部のクリミア半島ではジェノアからGreece商人共和国が独立していた。なぜギリシアの名を冠しているのかは謎の国だ。

1406年2月、オスマンの同盟国Goldren Horde(モンゴル)がノブゴロド&Greece共和国に戦争したので、戦争疲弊20%を回復させる間もなくオスマンも参戦させられる。これは帝国にとっていいニュースである。Bithyniaは反乱軍が占領し南下する。 そしてMacedoniaでは愛国者達5000人が再び蜂起した。

帝国は3隻の輸送船を建造していく。乏しい資金をやりくりしながら皇帝は海軍の再建も目指した。先の戦いから、小アジア側も制しない限り、トルコ人との戦争は勝てないのが明らかだからであった。

1406年4月、ノブゴロド戦争は終結。しかしトルコは各地で反乱軍が占領している。 すぐにモンゴルはグルジアに宣戦布告。オスマン帝国は疲弊を回復する隙もなくグルジア、ミラノ、モスクワ公国、ワラキアと開戦となった。 もうトルコ人涙目。 そして皇帝は次なる対トルコ戦の準備を軍に指令した。

だが、トランシルヴァニア公が同盟国ワラキアへ宣戦布告。救援の使者がやってくるが皇帝は、ここで参戦したら、トランシルヴァニアの同盟国ジェノアとアクィレイアとも戦争になる事を思い、救援を諦め、見捨てる事にした。

帝国の威信が28に低下し、ワラキアとの同盟関係が壊れたが、仕方ない事だ。今は生き残る事に全力を尽くさないといけない。

7月、モンゴル人とグルジアとの戦争は終結し、グルジアは領土を大きく減らした。

9月、愛国者反乱軍によって解放されたマケドニアは我らローマ帝国への復帰を宣言。帝国は戦わずして領土を得る。

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再び戦争の時期がやってきたようだ。オスマンの東方では反乱軍が各地を占領している。

だが皇帝Manuel II世は、その戦いの前に地上での使命を終えようとしていた。

長き病でベッドで寝込んでいた皇帝は、最後に家臣にして一番の友人であるElipidosへ告げた。 「もう予の時代は終わったようだ。息子のIoannesを頼んだぞ」 「勿論ですとも陛下。必ずや、皇太子様とともにビザンチン帝国をさらなる強国へと蘇らせましょう」 「トルコどもを、滅ぼすまで、我々の戦いは続くのだ……」

それが皇帝の最期の言葉となった。

滅びつつあるビザンチン帝国を瀬戸際から蘇らせた名君Manuel II世の死に、臣民らは哀悼の意を表しつつ新帝Ioannes VII世に新たに忠誠を誓うのであった。 彼は父親よりさらに有能であり、管理7に軍事8の英雄帝であった。 再び帝国は歩兵4連隊の動員を開始する。

そして動員が完了し、帝国軍を国境へと移動させた1409年3月、ビザンチン帝国は再びオスマンとの戦争を開始した。


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