オスマントルコは、急速に勢力を拡大しアナトリア半島を統一し、1453年には コンスタンチノープルを陥落させ、東ローマ帝国を滅亡しヨーロッパに進出した。 その後も、勢力を拡大し、1454年にはセルビアを滅亡に追いやり、バルカン半 島への足がかりを固めた。
オスマントルコのバルカン半島への浸透に驚異を覚えたローマ教皇は、ハンガ
リーからクロアチアを奪取したオーストリアに、バルカン半島の権益と引き替え
にオスマントルコ討伐の十字軍を命じた。
しかし、ボスニアに進出したヴェネツィアは、アドリア海やボスニアでの権益
を主張し、オーストリアとバルカン半島の権益を巡り戦火を交えることとなった。
この戦争で、オーストリアとヴェネチアの国境が主戦場となり、バルカン半島
に戦力の空白域が生じたため、オスマントルコは、易々とバルカン半島に進出で
きた。
これに対し、ポーランドがローマ教皇の呼びかけに賛同し十字軍に参加した
が、時すでに遅く、オスマントルコのバルカン半島支配が確定した。
この時代の歴史家マキャベリは君主論の中で「君主は、天下の大事には自国
の利害を無視してでも、立ち向かうものである。」と述べ、オーストリアとヴェ
ネチアの両国の行動を非難している。
ルネッサンスによる芸術文化が花咲いたイタリアでは、開放的な風俗による 風紀の乱れが顕著になった。1498年には、秩序の維持を求める保守派の支持を 得たサヴォナローラがトスカナの実権を握り、芸術を弾圧した。 これに対し、芸術家の保護を名目にシチリアがオーストリアと連合して、ト スカナ・ヴェネチア連合に宣戦をした。 (イタリア戦争)
戦争は、シチリア・オーストリア連合が優勢であり、敗戦続きのトスカナで
は、責任を問われたサヴォナローラが失脚し、シチリアに国土の東半分を割譲
した。ヴェネツィアは、シチリアとオーストリアに完全分割された。
シチリアを支援しているオーストリアがオスマントルコの侵攻により、イタ
リアに常駐している兵を撤退した。また、180年戦争の激化でフランスやブルゴー
ニュの関心がイタリアから遠のいたのを好機ととらえ、ジェノバに亡命していた
マキャベリが、失地回復を求めるトスカナやアラゴンと連合してシチリアに
宣戦を布告した。
北からジェノバ、南からアラゴン、中央からトスカナのイタリア全土で総攻撃
をうけたシチリアは、ジェノバやアラゴンに国土を奪われた。
バルカン半島は、オーストリア、オスマントルコ、ポーランドの3強に分割 されていたが、180年戦争によるフランスやブルゴーニュからの支援が期待できず、 イタリア戦争で同盟国のシチリアが崩壊したため、孤立無援となったオーストリ アはオスマントルコの侵攻により、国土が2分してしまった。 これに対し、ローマ教皇が、ポーランドに十字軍を呼びかけ、ポーランド・オー ストリア連合軍がバルカン半島からオスマントルコ勢を駆逐し、首都コンスタンティ ノープルも陥落させ、ヨーロッパからイスラム勢力の追放が達成寸前まで行った。
オスマントルコは、ロシアを平定したイスラム国家カザンに救援を求め、カザ
ンがポーランド領のウクライナやバルト海沿岸に侵攻した。
そのため、オスマントルコから、クロアチアの独立やルーマニアやアルバニアを
割譲させるにとどまり、オスマントルコは滅亡の危機から脱出した。