三面楚歌2(1565-68年)

南へ!

1566年12月、ヴェネツィアは未曾有の国難の中にあった。 ならず者である隣国シエナの突然の宣戦布告により、三大強国であるオスマン帝国、オーストリア、フランスを 一度に相手にしなければならなくなったのだ。 その兵力差は10倍である。

「ドージェ。コンティジェンシープランSの発動を至急裁可願います。」 陸軍大臣は元首執務室に入ってくるなりそう言った。 「あれは、対オーストリアだけを想定したもので、今回のようにオスマン帝国と戦争中である場合を想定していない。」 ヴェネツィア共和国第77代ドージェ(元首)マルコ・ドルフィン・ゴンツァーガは、呻いた。

コンティジェンシープランSとは、オーストリアが突然参戦してきたときに兵力が分散していた場合、 兵力を南部州で集結させるという予め定められた緊急作戦のコード名である。 ヴェネツィアは、領土が北部と南部に分断されているため、オーストリア軍はオスマン帝国領に阻まれ追撃できない。 時間を稼いでアドリア海経由でヴェネツィアに兵を輸送し、機会を狙って北部州を回復するというのが この緊急計画の狙いであった。

しかし、今回の場合、南部州にはオスマン帝国軍が次々に派兵されてくることが見込まれる。 さらにオーストリアとオスマン帝国も戦争中であるため、南部州までオーストリアは攻め込むことができる。 おまけにオスマン帝国は大量の海軍艦船を擁しており、アドリア海の安全を確保できているわけではなかった。

「ドージェ。このままではどちらにしても、クロアチアとイストリアに展開中の共和国軍12,000人は全滅です。 まずは南部に集結させ、オスマン帝国軍の撃破に全力を。 もはや一刻の猶予もなりません!」 「分かった。裁可する。」

すぐさま狼煙があげられ、クロアチア及びイストリア駐在の共和国軍にコンティジェンシープランSが伝達され移動を開始した。 オーストリア軍がクロアチアに到着したのは、共和国軍イストリア連隊が通過したわずか2日後のことであった。

対オスマン帝国戦

オスマン帝国領は広大であり、援軍が到着するのに時間がかかる。 到着までの間に各個撃破で敵兵力を削っていき、少しでも兵力差を埋める。 これが陸軍の立案した基本戦略である。 共和国軍は、3軍に分かれ集団で各個撃破を図っていった。

<第1軍> 1566年12月18日 ボスニア会戦 1567年1月14日 ゼタ会戦 1567年2月26日 ラリッサ会戦

<第2軍> 1567年1月9日 マケドニア会戦 1567年2月18日 コソボ会戦 1567年2月27日 ニシュ会戦

<第3軍(クロアチア方面軍)> 1567年2月3日 ゼタ防衛戦

これら全てで敵軍を全滅させるという華々しい成果であった。 さらに、1567年2月5日、海軍第1艦隊はアドリア海方面に兵員輸送中のオスマン艦船10隻をイオニア海で撃沈した。 これで、オスマン陸軍兵力は約3分の1にまで減少した。 もちろん我が軍はほぼ無傷である。

しかし、我が国の命運を握っているのは制海権である。 ヴェネツィアは他国から侵略された場合に、伝統的に首都とテッラ・フェルマ(本土)の海上交通を遮断することで 「負けない戦」を行ってきた。 たいした海軍力を持たない欧州各国との戦いではそれでよかったが、オスマン帝国は海軍艦船を多数保有している。 ガレー船50隻が金角湾からアドリア海に突撃してきたら勝ち目はなさそうであった。 アドリア海を握られることは、オーストリアに敗北することを意味していた。

「ドージェ、痛みわけならばオスマン帝国と講和が成立しそうです。」 「ここまで勝っていながら領土の1つもとれないのはもったいないがやむを得ない。それで交渉せよ。」

1567年3月2日、ヴェネツィア共和国とオスマン帝国との間に講和が成立した。 痛みわけであった。

残るは、オーストリア、フランス、シエナ。 その兵力差、約6.5倍。 どのようにして反撃していくべきか。

(No.28に続く)


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