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三面楚歌1(1565-68年)

欧州の逆襲

1565年12月、オスマン帝国は何の前触れもなく突如ボヘミアへ進軍を開始した。 オスマンにとって周辺国は征服すべき存在以外の何者でなく、 戦争を始めるか否かは全て帝国の意思次第であった。 ボヘミアはすぐさまオーストリアに援軍を要請、欧州 vs.中東の大国同士の戦いが始まった。 これを「第2次対ボヘミアオスマンジハード」という。

主戦場はオーストリア南東部からオスマン帝国北部、つまり北部ヴェネツィアの隣接地域である。 両者は各地で激戦を繰り広げたが、1年経たないうちにオーストリア側が優勢となり、 各地の拠点を落としはじめた。 「1525年の屈辱を今こそ。」*1 それは40年越しの欧州の逆襲であった。

ヴェネツィアの進撃

「今こそオスマン帝国を叩き出せ。」 第77代ドージェ(元首)マルコ・ドルフィン・ゴンツァーガは力強く述べた。 1525年のオスマン帝国とオーストリアの講和により、北部ヴェネツィアがオスマン帝国領と 隣接して以来、ヴェネツィアは常にオスマン帝国の脅威と対峙してきた。 第2次ボヘミアオスマンジハードのオーストリア側の優勢は、誰の目にも見て明らかとなったいま、 招かれざる隣人にお帰り頂く絶好のチャンスである。

1566年10月、ヴェネツィア共和国はオスマン帝国に宣戦布告、 同年11月、ヴェネツィア湾海戦でクロアチア上陸作戦遂行中のオスマン艦船コグ12隻を沈没させ、 クロアチアに上陸したオスマン兵12,000人をも全滅させた。 勇猛果敢で知られたイェニチェリ軍団も最新鋭の装備で身を固めたマウリッツ歩兵の前では、 子供が大人に向かうようなものであった。 それは、1525年以来、共和国政府が陸軍強化を最優先事項として資金を投入し続けた結果であった。

南方戦線ではゼタに進軍してきたセルビア軍を全滅させ、セルビア及びジャニナへの攻囲を開始した。 特にジャニナの取得は、アルバニアとアテネを陸続きにすることができる。 1405年のイピロス解放戦争ではジャニナを諦めざるを得なかったが、 今のヴェネツィアの国力ならば占領地の治安活動に裂く兵力は十分にある。

【火事場泥棒】

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圧倒的なヴェネツィア優位の状況に市民の誰もが酔いしれる中、その知らせは急にもたらされた。 「ドージェ、シエナが我が国に宣戦布告いたしました。」 その知らせに誰もが蒼白となった。

シエナの野望

シエナはヴェネツィアの南西、イタリア半島の北部に位置する国家である。 栄枯盛衰の激しいイタリア半島にあって抜け目のない策略により徐々に力を蓄え、 いまやイタリア半島の3分の2を領有する有力国家となっていた。 近年、その地理的位置からフランスとオーストリアがお互いの緩衝国としての利用価値を見出し、 双方から請われて同盟を締結していた。 欧州の2大強国の双方が味方につくという最強の状況がシエナには発生していた。

シエナ自身の野望とは「イタリア王国の設立」である。 「フェッラーラはそもそもイタリア圏に属するミラノ領であったのであり、ヴェネツィア領であるのは不当。 イタリアの覇者たる我がシエナに所属すべき土地である。」 との理由のもと、1566年12月、シエナはヴェネツィア領フェッラーラに進軍を開始した。 「ヴェネツィア戦争」との名で後世に知られる大戦の始まりである。

それぞれの陣営の同盟国は以下の通りである。

しかし、カスティーリャとポルトガルは名義だけ貸したのであり、イベリア半島から派兵する動きは 全く見られない。 実質的にはヴェネツィア1国でオーストリア、フランス、シエナ及びオスマン帝国を 相手にしなければならなくなったのだ。 兵力差は約10倍である。

「三面楚歌、味方は我らが内庭アドリア海のみなり。」 後の側近の日誌によると、マルコ・ドルフィン・ゴンツァーガはそうつぶやいたと言う。

「クロアチア方面に敵影!オーストリア軍56,000!」 「イストリアに敵襲!オーストリア軍50,000!」 「ゲルツに敵襲!オーストリア軍 「フェッラーラに敵襲!シエナ軍10,000!」 「ゼタ方面に敵影!オスマン帝国軍20,000!」

【続・火事場泥棒】

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※青丸はヴェネツィア軍展開地域

各方面から次々と侵攻の知らせは届く。 この未曾有の国難にどう対応すべきか。 元首公邸は混乱を極めていた。

(No.27に続く)


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*1 ≪作者注釈1:1525年の屈辱≫詳細は「No.22 オスマン侵攻と第2次ハンガリー侵略戦争(1521-25年)をご覧下さい。」

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