ただいま編集中です(by作者)

オスマン帝国の方針転換

1521年秋、ヨーロッパ世界には俄かにきな臭さが漂い始めていた。 オスマン帝国パディシャー(皇帝)オスマン2世は好戦的な性格として知られていたが、 あくまでその対象は、同じアラブ諸国であった。

しかしこの秋、オーストリアとポルトガルに対しオスマン帝国は立て続けに警告を発した。 オーストリアはオスマン帝国と直接領土を接する西の大国であり、 ポルトガルは神聖ローマ帝国皇帝国である。 この2国に対し警告を発したということは、領土拡大路線をヨーロッパに向けたという 意思表示にほかならなかった。

そして、ここヴェネツィアでは・・・ 「ドージェ、報告でございます。フリウリにて9,000人規模の暴動が発生しました。」 10月4日の早朝、第73代ドージェ(元首)ベルトゥッチ・コンタリーニ・コロンナは、 急使からの知らせで叩き起こされた。

「フリウリ征服戦争終結から約50年、いまだに我が共和国に馴染めぬ者がいようとは。」 「いえ、さらに問題なのは暴動を炊きつけた者です。」 「炊きつけた?」 「さきほどオスマンの密偵を捕らえました。」 「!」

そこへ緊急招集を受け元首公邸へ駆けつけた智謀家ジョゼッペ・メンモが入ってきた。 「メンモ、オスマン帝国は我が国への侵攻も視野に入れている・・・ということだろうか。」 「その可能性もゼロとは言えませんが、別の意図も考えられます。」 「例えば?」 「北部のフリウリに鎮圧部隊を引きつけておき、南部の軍事力を手薄にさせておきたい、と。 そうすることで、オーストリアに侵攻する際に背後を我が国につかれる可能性を下げたいのでは。」 「・・・近いうちに、大戦が起こる可能性あり、か。」

「メンモ。」 ベルトゥッチ・コンタリーニ・コロンナは、しばし沈黙した後、声を発した。 「命令を3つ出す。フリウリに陸軍10,000人を急行させ、直ちに暴動を鎮圧させろ。 第1艦隊の警戒レベルを上げ、ゼタ-クレタ間の哨戒頻度を上げろ。 そして、共和国南部から北部へ陸軍を全軍移動させろ。」 「・・・オスマン帝国が本気になれば、南部防衛はできぬと。」 「そうだ。だが、北部が防衛できればたとえ攻められても負けはしない。 北部侵攻までの防波堤にはオーストリアに担ってもらい、我が国は軍事力を温存すべきだ。」

共和国軍が北部へ去った同年12月9日、オスマン帝国はアッラーの名の下にオーストリアに対し、 ジハードを開始した。 「オスマン帝国 vs .オーストリア・ポルトガル連合」となるこの戦いは、 イスラム教徒対キリスト教徒の本格的な宗教戦争の始まりでもあった。 ヴェネツィア共和国政府は、当分この戦いを様子見することにした。

第2次ハンガリー侵略戦争

1524年初頭、ベルトゥッチ・コンタリーニ・コロンナは苦々しい顔つきで、 元首執務室の地図を眺めていた。

オスマン帝国はその動員数を背景にオーストリアを圧倒した。 南部から侵攻した部隊はクロアチアまで、北部から侵攻した部隊はケルンテンまで陥落させ、 既にオーストリアは北部防衛の防波堤とはなり得なくなっていた。 おまけに、ゲルン、イストリアといった共和国領内をオスマン軍は通行許可もなしに 我がもの顔で通行していたが、それを止める力はヴェネツィアにはなかった。 そして、周辺地域の治安悪化を受け、ヴェネツィアの庭とも言えるヴェネツィア湾では 海賊が横行しはじめていた。

【1524年1月の状況】

152401_海賊.JPG

「ここまでくると助言を遂行するのも良いかもしれませんな。」 ベルトゥッチ・コンタリーニ・コロンナは、つい先ほどまで部屋にいた智謀家ヴィットーレ・ロヴィーゴとの 会話を思い出していた。

「助言?」 「『ポー平原を北上し、ブレシアを支配せよ。』 50年前、フリウリ征服戦争に勝利したヴィターレ・スガイナ・スフォルツァが あまりの実現性の低さに隠匿してしまった助言をお父上から引き継がれてはおりませんかな。」 「オーストリアに戦を仕掛けろ、と!」 「いえ、単純に仕掛ければオスマン帝国から警告を受けている中、開戦の口実を与えてしまいます。 ここは我が同盟国に宣戦布告をさせるのがよいかと。」 「ハンガリーか。」 「はい。」 「考えておこう。」

ベルトゥッチは再び地図に目を向けた。

(大国同士の戦いでオスマン帝国が弱体化すれば、温存した兵力を展開させギリシア方面に侵攻し、 分散した領土をつなげることができる、と思っていたが、ここまでオーストリアが弱いのならば・・・。)

ベルトゥッチは、ロヴィーゴを執務室に呼んだ。 「先ほどの話、秘密裏に進めよ。」

1524年2月23日、ハンガリーはオーストリアに対し宣戦布告した。 世に言う第2次ハンガリー侵略戦争である。 ヴェネツィアはすぐさま同盟国としてハンガリー側につくとブレシアに出兵、 同年6月13日にブレシアを陥落させた。 だが、これだけではブレシアを割譲させるほどの戦勝点にはほど遠い。 共和国軍はトレントとシュヴィーツの攻囲を始めたが、腰抜けのハンガリーは「痛み分け」で オーストリアと講和を結んでしまった。

「領土を拡大できる絶好のチャンスに何もできぬとは。 やはり戦争の主導権を握れる国力をつけねばならぬ。」 共和国政府が地団駄を踏んだのは言うまでもない。

1525年1月4日、オーストリアはオスマンと和睦した。 その内容は、オーストリアがボスニア、ダルマチア、ラグーザ、フム、クロアチア、クレイン、 ケルンテン、シュタイアーマルク、リンツ、およびショプロンを割譲する、 という厳しいものであった。 それは同時に、北部ヴェネツィアがオスマン帝国領と国境を接することになる、 ということを意味していた。

ヴェネツィア領が南北に分断されていることによる国防上のメリットは、いまや完全に消えた。 東からの脅威に対し、「数で勝てぬなら技術力で対抗する」との発想のもと、 これ以降、陸軍技術の開発とそれを支えるための費用捻出が ヴェネツィアにとっての最優先事項となっていくのである。


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