保守化

政策面では新教徒と旧教徒の差別が禁じられたが、 カトリック教会としてはプロテスタント勢力が拡大してくるのは 望ましい状態ではなかった。 ヴェネツィア領内の司祭が集まり、会議が開かれた。

「なぜ宣教師になりたがる者がいなくなったのか?」 「それは例の『印刷業の育成』政策のおかげで、ピンクな本が・・・こほん、 教育上よろしくない本が大量に出回っているせいで民衆が堕落して しまったせいではないだろうか。」 「まったくあのような本は神を冒涜するものである。」 「規制を要請しよう。」

1500年、カトリック教会は教育上よろしくない表現を含む著作物の規制を政府に陳情した。 この考えは、近年の快楽的風潮を好ましく感じていなかった政治家に受け入れられ、 規制が行われるようになった。 しかし、これは言論の自由をおかす第一歩になるとして反対する勢力や、 ピンクな本の愛読者(?)はもちろん大反対であった。

政府は、このような反対勢力に厳罰(=火あぶり)をもって望もうとしたが、 これはさすがに国民の反発にあい、撤回せざるを得なかった。 一連の騒動の中で、国は荒れた。

【いけないものほど読みたいの!】

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≪ご参照:『印刷業の育成』の背景≫ 「」をご覧ください。

ファロ公会議

1503年4月、神聖ローマ帝国ポルトガルはローマ教皇の求めに応じて ファロで公会議を開催した。

議題は、最近のプロテスタント運動に対する対処についてである。 そもそもこのようなプロテスタント運動が起こったのは、 不在司教と堕落した聖職者が存在したためだとして、 これらの一掃が決められた他、 危険な思想を事前に排除できるよう屈強な修道者を育てるべく イエズス会を始めとした修道会の設立が決められた。 この会議は「ファロ公会議」と呼ばれる。

【ファロ公会議】

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絶対的な宣教師不足に悩んでいたヴェネツィアは、イエズス会からの修道士派遣を期待し、 1503年10月、「対抗宗教改革」の受入れを決定した。

【ファロ公会議】

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だが、カトリックでありながら、もともと自由な気風を備えていたヴェネツィアである。 対抗宗教改革を受け入れた他国では、宗教裁判の嵐が吹き荒れていたが、 ここヴェネツィアでは公平な「裁判所」が整備され、「信仰寛容の宣言」も行われていたため、 なかなか思い通りにはならなかった。

たとえば、カトリック教会としては断罪すべき人物が宗教裁判にかけられても、 ヴェネツィア政府から派遣されている裁判官が異議ありとして裁判席をたってしまえば、 有罪にすることができなかった。 また、ヴェネツィアでは、基本的には、自国の政治体制に反対を唱えるものでない限り、 言論の自由が確保されているため、「聖書翻訳禁止法」や「秘密集会禁止法」を 導入しようと目論んでも、ヴェネツィア政府に一蹴されてしまった。 この時代のカトリック教国で、ローマ教皇の言うことをまったく聞かなかったのは、 恐らくヴェネツィアぐらいのものだったのではないだろうか。

結果、イエズス会の修道士は他国とは全く勝手の異なる宗教活動を強いられることになり、 このことが、次第にヴェネツィアとローマ教皇との間に不協和音を生じさせることになる。

(No.19に続く)


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