序盤でたいせつなことは三点。
1.島津氏は室町幕府の幕臣であり、これによりBBR上限に大きくペナルティを受ける。 これは幕府が解体するまで続く。
2.各領国は分裂状態にある。
安定度低下+反乱発生をもたらす改善イベントに耐えることで領国をまとめることができる。 これにより税収などが徐々に回復する。
3.足利将軍家は拡大スピードが速い。要警戒。
時計を動かす前に肥前の少弐氏に宣戦布告。 放置していたら大兵力を抱えるようになる。初期手持ちなら歩兵2000対歩兵2000。ピンポンで殲滅、攻城。
併合後、規模10000の反乱が新領土・肥前で発生。島津の歩兵2000ではどうしようもない。 反乱軍の要求を受け容れ、反乱軍リーダーである少弐.Iを島津家の新しい当主として迎え入れる。 引き替えに反乱軍をそっくりそのまま入手。開始3年で島津の名が…
次は豊後の大友氏だ。 なんと足利将軍家に攻められている。併合されたら後がとんでもなくめんどうだ。 しかし豊後は要塞レベル2であるのに対し、足利は歩兵1000しか派遣していない。 占領は進まず白紙講和が成った。これはもう、今やるしかなかろう。 大義名分無しで大友氏に宣戦布告。併合。
Feuding Daimyoイベントが薩摩で発生。冒頭で紹介した、領国の分裂状態を改善するイベントだ。 薩摩の反乱リスク+25%に2年間耐えると(といっても今回は差し引きで+5%)、プロヴィンスの状態がBadly FragmentedからFragmentedに改善される。
少弐.Iが死去。後継に島津国久。 おそらく、少弐.Iは一代限りの少弐島津氏(?)当主という取り決めだったのだろう。 今後のお家騒動の火種とならぬよう、少弐氏の息のかかったものは全て(ry
わが島津の九州平定に危機感を持ったのだろうか。足利将軍家が同盟締結を求めてくる。 上杉・細川あたりとの抗争に巻き込まれても得るものが無いと考え断る。すると攻めてくる。 これはなんというDQN幕府。 海路、1000~3000の部隊を小刻みに送り込んでくるだけなので、島津は優勢なる歩騎8000でちまちまと殲滅。 白紙講和。
Feuding Daimyoイベントが地域Decisionでも起動できることに気づいた。 肥前で使ってみると、30000の反乱軍が発生。やめときゃよかった。なんとか士気で競り勝つ。
長門・石見を保有する大内氏を牽制するため、安芸の毛利氏と同盟を結ぶ。直後、DQN足利が毛利氏に宣戦布告。 しかし足利氏主力は上杉攻略へ向かう。がら空きの京都。抵抗もなくするすると上洛してしまう島津氏。 けっきょく足利氏が上杉を属国化→島津が山城を占領→上杉属国解除、と実質上は開戦前への復帰で決着。
織田の躍進がめざましい。 東北一帯を足利氏から奪った上、山名氏を継承。
島津は細川・今川氏と対仏大同盟ならぬ対織田大同盟を結成。 このまま天下餅をこねられては困るのである。
今川氏が足利氏を併合。しかし直後に属国として復活させる。 また美濃には斉藤氏も属国として擁立。BBRが上昇したためだろうか。
事態はさらに動く。包囲網が負担だったのか、織田氏の本拠地伊勢で大規模反乱が発生。 ここに土岐氏が独立し、織田氏は父祖の地を失う。
次に毛利氏が長門の大内氏へ侵攻、これが自滅戦争となった。 大内氏と同盟関係にあったわが島津は毛利氏を攻略、属国化。しかし火事場泥棒で赤松氏に石見を持って行かれる。おのれ。
その後、島津が毛利氏を外交併合するまでの十年間、大きな動きは無い。
どういった同盟関係に巻き込まれたのか。とにかく、今川+足利+島津 vs. 上杉+赤松の戦争になった。 赤松氏は3000しか常備軍を置いておらず、わが島津の軍勢9000はこれを一瞬で粉砕する。 後は全土占領、石見と出雲の割譲、さらに属国化で大勝利。1454年である。
ちなみにこのころ島津は摂政政治だった。 その名無しの摂政さんが関白を公称してしまうというイベントが発生。 SSちゃんと撮れなかったのです、残念。
七年戦争。 1458年、細川氏が織田氏へ宣戦布告。 細川+上杉+島津 vs. 織田+足利の構図、列島全土にわたる戦いとなった。
序盤、島津は織田氏の西日本主力部隊6000を殲滅。 しかし安芸で5000*2の一向一揆が発生し、織田氏の本拠地・因幡の占領を続けられない。 中国地方をいきつもどりつしているあいだに、上杉氏が分離講和。織田氏の北日本主力12000(!)が大返しを決行。 この織田軍精鋭に対し、わが島津の10000は大敗を喫する。全滅直前で九州まで逃げる。 一時は中国地方放棄論まで出たが、戦力を回復し再戦を挑む。結果、織田軍12000を殲滅。
これはこれでいいんだけど、盟主の細川氏は騎兵1000歩兵2000しか動かしていない。あなたは戦国時代をナメておるのかね? 最終的に細川氏が織田氏と講和。常陸に佐竹氏をリリースさせるというだけの内容である。 七年かけてこれでは、島津数千の英霊が報われぬ。
1468年、但馬の赤松氏を外交併合。
東北地方へ勢力を伸ばしたのは紫色は今川氏。 東北は織田氏が飛び地を管理できず反乱軍占領となっていた。 それらが今川氏と蘆名氏にいっきょに寝返ったというわけだ。
次に細川氏が衰退する。あろうことか単独で織田+今川コンビに殴り込みをかけたのだ。 結果、紀伊を織田氏、四国を河野氏に奪われる。 なお画像では、織田氏が紀伊と伊勢を畠山氏に与えて傀儡独立させてしまっている。
そして1489年、織田-今川の大戦が始まった。
今川氏は東北領土に抱え込んでいる蘆名氏の攻略に手間取る。攻め上がる織田の大軍。 今川軍は一時4000程度まで兵力を削られるが、陸奥へ引っ込み兵力を回復。 逆に織田方はいたずらに損耗を増やす。
そこへ蹴りを入れる我が島津である。 目的は長門の大内氏(織田と同盟を維持)の併合。部隊を二手に分け、長門攻略と因幡攻略を同時に進める。 織田氏は直轄領が因幡と越前しかなく、因幡を押さえられると戦争中の新規兵力徴募が非常に難しくなったようだ。
島津は予定通り大内氏を併合、さらにオマケで因幡まで織田氏から割譲させる。これは予想外のボーナス。
因幡を島津に対して失った織田氏だが、信濃を今川氏から奪った。 これにより今川氏は領土を南北に分断された。おおいに弱体化である。
島津と国境を接している足利氏と細川氏はいずれも織田氏の属国。 ブルーの畠山氏も織田属国。島津としては攻めにくい。
以上、島津の百年の戦いは京の都を臨むところまで到達した。