ルターはオーストリア領で多くの信徒を獲得し、彼の信望は日に日に高まっていきました。 彼のプロテスタント派(ルターを嫌う人たちは彼と彼のシンパのことをこう呼びました)は南ドイツからアルザス・ロレーヌのブルゴーニュ領へ、また北イタリアの諸侯領へとひろがっていきます。
「おれ、もしかしてすげえやつなんじゃね?」
ルターがそう思うのも無理はありません。 十六世紀はじめ、ルターの権力は絶頂に高まりました。 オーストリアでは国王から諸侯に至るまでルターの聖書解釈を信じ、牧師による教会制度改革を徹底的に行ないました。 教会財産は接収され、中産階級の勤労が奨励されます。 南ドイツ、中央フランス、北イタリアはプロテスタントの牙城になりました。
これに危機感を覚えたのが、神聖ローマ皇帝とローマ法王庁という聖俗両方の最高権力を手にしたブルゴーニュのカペー朝です。 自分たちの領土と、ローマの近辺にプロテスタントの勢力が及んでいるのです。 面白いわけがありません。 しかも、十六世紀の中頃には彼らのお膝元にカルヴァンという改革派の人物まで登場して、領内の宗教的秩序を荒らしまわったのです。
このハプスブルク朝とカペー朝の仁義なきたたかいの前に、ヴェネツィア共和国はどのように立ち振る舞ったのでしょうか? ルターがオーストリアに入ってからしばらくして、ヴェネツィアの十人委員会は会合でプロテスタントに対する処方を協議しています。 十人委員会は隣国の改宗をしばらく注意深く見守っていましたが、彼らが中産階級の権利を守り、勤労と節約を奨励し、産業と国富を発展させていることを確認すると、大胆にもプロテスタントの協議を受け入れることを決断しました。
ヴェネツィア共和国のプロテスタント化です。
一度きめたらヴェネツィア共和国はトップダウン方式で属領に対するプロテスタント改宗工作をすすめます。 テッラ・フェルマ(本土)はすでにプロテスタントの勢力が隅々まで広がっていたため、熱狂した牧師たちはラヴェンナ、コルフ、クレタ、ロードスといったヴェネツィアの各拠点に押し寄せ、そこで住民を改宗させるべく熱心な活動をはじめました。
オーストリア、 ボヘミア、 ヴェネツィア、 アラゴン、 そしてフィレンツェなどの国が十六世紀の最初の二十年で瞬く間にプロテスタント化しました。
これにブルゴーニュの神聖ローマ帝国が危機感を覚えないわけがありません。 1519年、皇帝はコブレンツの協議会を開催し、プロテスタントに対抗する反動宗教改革をはじめます。コブレンツの宗教会議です。