1415年1月1日 ハンガリー王ジギスムントはかねてよりブランデンブルクの代理であったニュルンベルク城伯フリードリヒ6世に選帝侯領を与えた。一説によると王の借金の担保であったと言われている。 そのころフリードリヒはブランデンブルクの北隣メクレンブルクと紛争を起こしており、正式には代理のまま交戦していた。 1415年10月1日 4月30日に選帝侯に就いたフリードリヒはその後数カ月の攻囲戦を経てメクレンブルク州都ロストックを陥落、メクレンブルク公を追放した。これに異を唱えるマインツの大司教、ミュンスター、ユトレヒト、司教は紛争に介入、2年に渡る戦争の幕開けとなった。 戦争中フリードリヒは軍事教練の採用及び官僚制の整備を行い後のブランデンブルクの基となる施策を打ち出している。
1417年 ブランデンブルク軍はマインツ、ミュンスターを占領。マインツ大司教、ミュンスター司教がブランデンブルクの臣下となる条件で講和が成立した。マインツの大司教は7人の選帝侯の一人であり大司教の臣従はブランデンブルクの票の追加を意味した。
戦後の復興に努める傍らブランデンブルクの文化振興を図りフィレンツェ派美術の支援、馬上槍試合の開催、絵画やタペストリーの制作等を行った。後にブランデンブルクはドイツの文化、学問の中心地となり多くの偉人を輩出するようになる。
1421年8月26日時の皇帝ヴァーツラフは異母弟ジギスムントと争う中崩御、フリードリヒに帝位が渡った。