長らく、恥知らずの状態で跋扈していたボヘミアに正義の鉄槌が下されるときが来た。 神聖ローマ帝国皇帝バイエルンの呼びかけにノルウェー・ハンガリー・オーストリア(滅亡後独立)・クロアチア・モルだビア・トランシルバニア・プロイセン・ギュイエンヌ・ブランデンブルグ・メクレンブルグ・プファルツ・ポメラニア・ザクセン・シレジア・スティリア・ユトレヒト・ハンザなど、神聖ローマ帝国のすべての国が参加した。 ボヘミア軍は各地で奮闘したが衆寡敵せず破れた。 東欧の雄リトアニアは、オスマン帝国に止めをさすべく侵攻。コンスタンチノープルの包囲を行う。しかし、オスマントルコは、ガレー船で対抗し、制海権を譲らなかったため、リトアニアがアナトリア地方に進入することができず戦争は長期化した。
公開処刑と言っても良いボヘミアの戦後処理が行われた。 国土回復・帝国解放の名のもとで行われた戦争であり、ボヘミア王国の土地は、旧来の支配者の元に返された。 しかし、旧来の支配者とは、あくまでも詭弁であり、バイエルンが国土を大きくしたことは事実である。 また、オーストリアが中規模の国となり、周囲の警戒を抱かせる。 リトアニアとオスマン帝国の戦争は長期化し、リトアニア国内で反乱が頻発するようになる。 ブルゴーニュに対抗するため、アラゴンとイギリスが婚姻をした。
リトアニアはオスマン帝国との戦闘に勝利し、コンスタンチノープル以外の領土を接収した。 しかし、この長引く戦争で、ウクライナ地方が独立し、独立したウクライナとクリミアで覇権を争ったが、ウクライナが勝利し、この地域を収めることとなった。 旧ボヘミア領の所有をめぐり、オーストリア、マゾヴィア、クロアチア、トランシルバニア、ボヘミアなどが対立した。この戦争の勝利者はオーストリアであり、マゾヴィアを除くほとんどの国は、オーストリアに飲み込まれた。 長らく神聖ローマ帝国を悩ませていたブルゴーニュに、ボヘミアと同じく、帝国による懲罰を与えることにした。 その結果、ネーデルランド地方が解放された。これにより、アントウェルペンで交易していた各国が自国に交易の中心地を設けた。この後、この地域の交易の中心地は細分化されたままとなる。
ブルゴーニュに対する第2次侵攻が行われ、ブルゴーニュはさらに細かく分割された。国土は大きく2分されており、これで、ブルゴーニュの凋落は決定的になると誰もが考えた。 2度のブルゴーニュと神聖ローマ帝国の戦争のさなか、着実に領土を拡大したオーストリアは、バルト海にまで進出した。ここに東欧の大国が成立したことになる。 これまで東欧の大国であったリトアニアは、反乱が止まらない状態が続き、周辺各国に領土を分割されていった。 バルカン半島は、オスマン帝国を征服したものの、本国から飛び地となり、ヴェネツィアが徐々に侵食されていく。