新しく護国卿に就任したブロックは、まず内閣*1を設立します。ブリテン島、そしてアイルランド島制圧、そしてオリバー・クロムウェルからの悲願である教皇領の抹消の為には、どうしても悪評がつきまといます。国内政治が公平に執り行われていることを示すことで、せめてその悪評を和らげようとしたのでしょう。 しかし、その為に造船系への予算を削減した為、国内は一時騒然となりました*2。しかし、ブロックはこれはやむを得ない「痛み」だととらえたようです。
ブロックが護国卿に就任してから2年が過ぎた1663年、一つの問題が議会で持ち上がりました。同盟国オランダがオルデンブルグと戦争を始めた為、これに介入するか否かです。当面は国内に注力したい派閥と、同盟国との信義を守るべきだという派閥が論戦を戦わせましたが、最後にはブロック護国卿の決断のもと、この戦争に介入することになりました。
この戦争の結果、オルデンブルグは改革派に改宗し、イングランドの属国になります。また、ハンザ同盟よりハンブルグを割譲させました。この地は長らくイングランドの大陸北部の拠点として重要な意味を持つことになります。 また、オランダにとってこの介入は、イングランドが信用に足る同盟国であると強く認識させることになりました。今後も、オランダとイングランドは長きに渡ってよき同盟者として歴史の荒波を乗り越えていくことになります。
1666年、イングランド共和国政府に激震が走ります。フランスが帝国主義を元にイングランドに戦争を仕掛けてきたのです。
イングランド側はオランダ、アイルランド、トラヴァンコール。対するフランス側はフランスとポルトガル。 数の上では勝っていますが、弱体勢力のアイルランドと遠く離れたトラヴァンコールは実質的に戦力になりません。実数十数万のフランス陸軍の矢面に立つことを引き受けたオランダは、どのような境地でこの戦いに臨んだのでしょうか。
オランダの健闘を祈りつつ、イングランドは遠く新大陸で攻勢を始めます。こちらに歩兵2万を置いていたイングランドに対し、フランス、ポルトガルは弱体な兵力しか配備していませんでした。イングランドは次々と両国の植民地を奪い、或いは脆い城砦を打ち砕いていきます。
しかし、新大陸で幾ら戦果を挙げても、ポルトガルやフランスは中々痛み分けですら首を縦に振りません。本国が無事である以上、講和する意味はない、ということなのでしょう。 そうした情勢を受けて、ブロック護国卿は一つの決断を下します。それは戦争の展望そのものを変えること――海上封鎖作戦でした。
この作戦を精力的に指導したマールバラ伯*3を戦いの渦中で失いながらも、イングランド海軍はよくその任を果たします。最後には海軍の支援の元、リスボンへの強襲攻撃を仕掛け、1671年、とうとうポルトガルは、セイロンの独立とスペイン、フランスとの条約破棄を条件に降伏します。
そして、イングランド海軍の矛先は続いてフランスに向けられました。
陸戦兵力では今なおイングランドを圧倒するフランスですが、有力な艦隊をイングランドとの海戦で失い、海上封鎖を受けて苦しくなってきた市民の声に、最早国王は抗えませんでした。 1672年、イロコイとブルターニュの独立、イロコイ以外の新大陸領の割譲を条件に、とうとうフランスは降伏します。
かくして、6年にわたった国難とも言うべき宿敵フランスとの戦いは、イングランドの大勝利に終わったのでした。
さて、一方のブリテン本土はどうなっていたのでしょうか。実は依然スウェーデン女王クリスティーナは健在であり、スウェーデン=スコットランドの同君連合体制は崩れていませんでした。 フランスとの戦争が終わった翌年である1673年、ブロック護国卿は一つの決意を固めます。あまり事態を長引かせ、スウェーデンがスコットランドを継承してしまうのを座して待つより、悪名を覚悟してブリテン統一を果たそう、というものです。
かくして、民族主義*4に基づいた戦争を、スコットランドに(ひいてはスウェーデンに)仕掛けます。
スウェーデンもデンマークと並ぶ北欧の雄であり、決して弱体な敵ではありません。 しかし、フランスやポルトガルを相手に大海戦を仕掛けたイングランド海軍を敵に回せば、流石に分が悪過ぎました。 とは言え、この戦争においてイングランドの側にも誤算がなかったわけではありません。と言うのも、この戦争においてイングランドが「大義名分を以て仕掛けた」相手はスコットランドでしたが、スコットランドは同君連合の下位従属国であり、イングランドは終戦の交渉をスウェーデンと行わなければならなかったのです。そして、イングランドはスウェーデンに対し、なんら大義名分を有していませんでした*5。 結果、アバディーンを割譲させ、スコットランドを首都のプロヴィンスのみとしたものの、それによって余計な悪名を背負い込むことになってしまいました。
そしてそれから10年後の1683年、後述する「第二の国難」を乗り切ったイングランドは、再びスウェーデンに宣戦布告。スコットランドを併合しました。 1676年にアイルランドを外交併合したことと併せ、イングランド共和国成立より僅か34年でありながら、ここにイングランドはブリテン=アイルランドの統一を達成したのです。
事の発端は1675年年初の議会でのことです。急進派の議員に引きずられるように、「腐敗した教皇庁に対する弾劾」が議決されました。国内の旧教を信仰する人々に対する風当たりが強まることはなく、以前のまま*6でしたが、対外的にはイングランドは旧教勢力、より正確にはそれを代表する教皇庁との対決姿勢をはっきり打ち出したのです。
そして同年四月、イングランドは実際的な行動に乗り出します。教皇領を併呑し、教皇を名前だけの存在にするべく教皇領に対して宣戦布告をしたのです。 しかし、清教徒革命の果てに生まれたイングランド共和国政府は、「教皇の権威」というものを些か甘く見ていたのでしょう。このイングランドの行動に対する反発は、予想以上に強いものとなりました。
まず、盟友とも言うべきオランダが参戦拒否を宣言します。オランダもまた改革派の国家ではありましたが、それと教皇庁に直接弓を引く行為は、また別物だったのでしょう。
とは言え、この段階ではまだ、教皇領に味方してイングランドと敵対するのはヴェネツィアだけであり、それも教皇領が完全降伏したのを見て、白紙和平に同意しました。
しかし、これはことの始まりに過ぎませんでした。
まず、同年のヴェネツィアとの講和が成って間もない12月、ドイツ諸邦の一つから驚愕に値する宣言が上がります。教皇を冠し、あらたにその国を教皇領とするというのです。*7
そして、ローマの改宗が成った1678年、イングランドはスペインがマヤに宣戦布告をしたとの報告を受けました。マヤはイングランドの影響下にある国であり、イングランド議会は「スペイン何するものぞ、勝手な真似はさせぬ」とスペインに対して宣戦布告をします。 しかし、それを見て雪辱戦とばかりにフランスが宣戦布告、さらにヒューロンも立ち上がるに及んで、イングランドは多正面での戦闘を強いられることになってしまいました。
いかなイングランドといえど、スペインとフランスを同時に敵に回して戦える力はありません。 それでもイングランド軍は奮闘しましたが、スペインに対しては敗北を認めることで講和を請うしかありませんでした。マヤはこの時、既にスペインに併呑されています。これは、イングランドにとって屈辱の1ページとなりました。
一方、フランスに対しては、再び海上封鎖によって対抗します。これにより、イングランドはフランスにブルゴーニュとバルの独立を認めさせました。陸では精強を誇ったフランスは、海を閉ざされたことによって、徐々に衰退していくのでしょうか。