先代のレオポルド・フェルディナンド1世の時代には、技術格差*1や、金銭的な困難もあり、ミュンヘンの改革派*2商人がヴェネツィアで商売を行っていた。 アドルフ1世の治世となり、改革派の信徒がいなくなったこともあり、商人の派遣は取りやめとなった。 精糖所や織物工場などによる殖産興業が発展し、財政が好転したことも影響しているとは思われる。
なお、アドルフ1世は、即位時19歳であり、先代のレオポルド・フェルディナンド1世の様に臣下が勝手に改宗したわけではなく、当主自身の意思である。
皇帝が変わっても、イタリア問題が解決しないのは、この帝国の宿命だろうか? 1542年にサルディーニャがカスティーリャと連合して、帝国領内のサボイに侵攻した。 サルディーニャは海の向こうの国であり、ヨーロッパと無縁なんですけどね・・・・
いまだに、教皇不可謬説を信じているので、正しい教えを普及して上げた。 本当は、海を渡って、じかに説教してやりたいのだが、バイエルンは船どころか、海に面した土地は津波があって危険なので、所有していないこともあり、あきらめた。
1543年、第11回目の侵略戦争だそうです カトリックが教皇領以外ほとんどなくなったので、自分で破門にして戦争をすることを覚えたので、もっと多いと思います。 とにかく、諦めるとか、悟ると言うことはありません。
海の向こうといえば、ポルトガルが色恋??とか言う部族を併合*3したそうである。 サルディーニャと色恋は、どっちのほうが遠いのだろうか。
1547年に、グラナダがプロヴァンスに侵攻した。ヘローナと言う州をめぐる争いらしい。 1550年近くになっても、両国が存在していることも驚きだが、お互いが戦争するとなれば、さらに珍しいと思う。
グラナダは、どこかの国とカスティーリャの戦争で独立したため、純然たる国家とは言いにくいが、プロヴァンスは、常に独立国であった(はず)
どちらにつくか、悩んだが、帝国皇帝としては帝国領内にあるプロヴァンスを支援するしかないのである。
この戦争中に、対アルマニャック、ブルゴーニュ、ロレーヌ連合と、カスティーリャが混ざってきた。 さすがに、イベリア半島での戦争となったこともあり、1548年に和平して撤退した。
1549年に教皇領はジェノバにも侵攻した。 1553年にグラナダが、プロヴァンスに侵攻した。 同年アルマニャック(以下略がグラナダに侵攻した。 1555年に教皇領がオーストリアに侵攻した 1559年にグラナダが、プロヴァンスに侵攻した。 1560年に教皇領がアクイレイアに侵攻した。 1564年に教皇領がジェノバに侵攻した。 1568年に教皇領がクロアチアに侵攻した。 1570年に教皇領がアクイレイアに侵攻した。 1573年に教皇領がジェノバに侵攻した。 1580年に教皇領がサルディーニャに侵攻
ブラウンシュバイクとスウェーデンも何度も戦争しているし、オーストリアとイングランドは、お互いに、戦争して、おまけが10国ぐらいついているし、プロヴァンスとイングランドの間だけでも2回は戦争している。
特に教皇領!! 1580年の時点で第15回目の侵攻とか言ってます。教皇の破門による破門戦争を入れると最低でも20回以上(たぶん30回程度)は自ら宣戦布告をしているはず。 バイエルンと教皇領は皇帝の防衛戦で十何回かは戦争していると思う。 異端とか破門とかでなく、神の敵に列していると思う