1307年に始まったアヴィニョン捕囚は、1377年に教皇がローマに帰ることで、解決するように見えた。 しかし、翌年に教皇が死去し、イタリア人の新教皇が選出されると、それに不満を持ったフランス人枢機卿らが別の教皇を擁立し、ローマとアヴィニョンに教皇が存在する教会大分裂となった。 事態収拾のため1409年にピサ教会会議が開催され、両教皇の廃位と新教皇の選出を行ったが、廃位となる両教皇とも納得せず、3人の教皇が乱立する事態となった。 史実では、1414年から18年、あで開催されたコンスタンツ公会議で、教皇の一本化が行われた。また、この会議では、異端の一掃が図られ、ヤン・フスが火炙りとなり、フス戦争の引き金となる。 このAAR上では、1414年、1417年と神聖ローマ皇帝バイエルンとローマ教皇が戦争をしている。その後、1425年にも両国で戦争が行われ、この次期に公会議を開催しているということは説明がつかなく、1425年にローマ教皇を屈服させているので、それ以降に開催されたと主張しても、矛盾はないと思われる。 1370年生まれのフスについても、1434年時に、64歳であり、火炙りにあわなければ生きている可能性がある。
1408年生まれであり、1401年生まれのマクシミリアン1世の強い後継者と言うことは、兄弟と考えるのが普通である。 即位の前年に、キリスト教徒に反する行いをし、マクシミリアン1世から叱責されているにもかかわらず、皇帝に即位したと言うことになる。 ボヘミアに留学しており、フスの教えに接し、帰国後にミュンヘンで、フスの教えを教えたために叱責されたと考えてもおかしくはないと思われる。 そのような皇帝が皇帝の戴冠式とともに公会議を開催すると宣言したわけである。 軍事的にローマ1州に追いやられた教皇も反対はできなかったのであろう。
1434年に開催された神聖ローマ皇帝戴冠式は、歴史に残る式典である。 戴冠式とともに、公会議が開催される為、帝国諸侯だけでなく、全欧が注目をしていた。 分裂をしていた3名の教皇は、王冠、王錫、マントをそれぞれ、清め祝福した。選定候であるケルン、ヴュルツブルグ、マインツの各大司教が、フェルディナンド・マリア帝の前に差し出し、皇帝自らが身にまとったのである。 金印勅書で、ローマで戴冠する必要がなくなっていたが、教皇を戴冠式に呼び出し、皇帝本人ではなく皇帝が戴冠する聖物を清めさせるだけの役割に落とし、自分の下にいるはずの大司教が、皇帝に差し出すと言う事態は、教皇の権威を否定する行為と言っても良い。 さらに、宣誓において「父と子と聖霊の御名において*1ドイツ人の支配者として君臨する」と宣言した。 つまり、神聖でもローマ的でも帝国でもない*2と言うことである。 これについては、ビザンティンのコンスタンディヌーポリ大主教の記録が中立的かつ正確である。 「教皇が大司教より下であるということを周囲に示したことに驚いた。なぜ、このような危険な人物を皇帝に選んだのか疑問であったが、選定候である3人の大司教の顔を見て理解した。教皇の権威が否定されれば、相対的に、大司教の地位が上がるのである。しかも、犯行の主犯として見られることはない。この式典及びこの後の公会議が教皇の葬式と呼ばれる日も近いだろう。ビザンティンとしても、ライバルである教皇の権威が落ちることはコンスタンディヌーポリ総主教の地位が相対的に上がることであり、反対する必要はない。」