前回、キリスト教に占領させて改宗を促したわけだが、宣教師がないため後戻りができない状況になってしまった。 戻る方法がないなら進むしかないと決断。 1631年、狂信者達を放置し、兵士たちで壁を作って進行方向を誘導することにする。
1633年、本来のキリスト教伝来イベント発生。 これは鎖国令が出ていないときに一定の確率で発生する。「何も問題はあるまい」を選ぶとさらに次のイベントで改宗完了する。
1635年、橘頼朝2世死去。そのまま元服済みだった橘成親1世が後を継ぐ。 行政8-軍事7-外交6。ほとんどいうことはないぐらい完璧だ。 急いで安定度回復を目指す。
1637年、安定度が+3に回復。技術革新実行。オリエンタル技術化に成功。 次の技術革新で西欧技術になる。
1640年、最後の技術革新実行。
これにて技術革新は終了。残るは軍の近代化のみとなった。
1646年(?)、最終段階、軍の近代化実施。
ほぼ何の障害もなく、軍の近代化まで完了。これにて欧州諸国と張り合う準備がほぼ完了した。 隣国ボーナスは+100。次第に技術も追いつくだろう。
1650年、狂信者達を移動させてカトリックに改宗させる作戦だが、半分成功半分失敗である。 とある一部を往復する運動になることが多く、なかなか思ったとおり進軍させることが出来ない。 また、進軍の歩みも遅い。 ここで思い切って国策「宗教一致運動」を選択。 この国策、選んでしまうと自国宗教以外が広がってしまうイベントが起きるというとんでもないデメリットがある。 このデメリットのため、ほとんど使われない捨て国策になっている。 しかし今回はこのデメリットをあえて狙って、国内の神道を減らそうという作戦だ。
「宗教一致運動」を使って「国教である神道を減らす」という矛盾した名前の作戦を取る事に。
1660年、そうこうしていると10年経過。
かなりカトリックが広がってきた。ちなみに北海道の一部と越後が仏教に改宗。 技術もかなり進歩し始めてきた。
1662年、橘成親1世死去。近代化を推し進めた名君。祖父の橘浪人の次ぐらいに偉大であると思われる。 橘公長1世が氏族長に就任。跡継ぎは橘房前7歳(行政4-外交3-軍事7) 跡継ぎの能力がちょっと不安。
1665年。カトリックの伝播が全国区に。そして宗教切り替え条件が達成。
氏族をあげての狂信者放置、及び誘導によってプロヴィンスのカトリックが第一優勢勢力となった。
実は外国語版wikiには「一番優勢な宗教」か「過半数である」の2つの条件が混在している。 今回の下図の円グラフを見るに、どうやら正しいのは「一番優勢な宗教」であることであり、 別に過半数である必要はない。と結論付けられる。 「宗教一致させない運動」も意味があったということだろう。
1667年、タイミングを見計らってカトリックへ改宗。
ここからは保守主義に寄せて宣教師を増やすことにし、残りのプロヴィンスも改宗していく。 また、安定度が回復次第、再度殖民に国力を注ぐことにする。 国策の「宗教一致運動」も必要でなくなった為、「神の福音」にして宣教師の足しにする。
1669年、初めてフィリピンに入植。そろそろ西欧の国の船を多く見かけるようになってきた。 もう残り止らず埋めていくつもりで入植を再開。
1670年、どうも隣国の反乱がベラに進入してくる。
ここを保持する理由も、西部技術となり近代化した今ではなくなったに等しい。 バッターニとして独立させ、属国とする。
準備はほとんど整った。海を渡る前にまず近くの海を押さえ入植に励むのだ!