状況を整理しよう。現在1518年、橘に国難(Time of Troubles)が発生。 主な効果は
そして、解除条件の1つに平和状態である…ということがさらにまずい。 また、各地で反乱率があがったことにより各地域の税収にマイナスボーナスが付いた 戦争どころか入植すら危うい。
ここで私が取る方法をまとめる。
以上の事柄を指針としてこの事態を乗り切ることにする。
1525年の様子
本土のほうはなんとか押さえ切れているが、元植民地の方が押さえきれない。 遠方である北海道・スラウェシ島などで反乱が起きた場合は対処に手間取ることがほとんどだ。 1527年、氏族長橘忠盛死亡。1509年からなので在位18年か。激動の時代をすごしていった氏族長であった。跡継ぎは橘義仲(2回目)現在9歳なのでまた摂政評議会の出番。
1535年、やることがない。そしてひたすらにブルネイ戦が終わらず泥沼の様相。 あまりにも長いことプロヴィンスを制圧していると防御兵が0になる。 そうなると反乱軍が沸いた時に即座に奪われてしまう…。かなり終わりの見えない戦争になってきた。
1542年、ブルネイ戦争開始から45年経過。一向に終わらないまま、橘義仲2世死亡。 この間の氏族長は不運としか言いようがない。
次の氏族長の名前は…。
橘浪人。
どう考えても日本人なら付けない名前だと思うのだが…。
橘氏族も相当に困窮してるという事なのだろうか…。
また、ここで将軍が他2つの大名と仲良くなってしまって影響度があがってきた。 いきなり戦争が終了してフルボッコにされると困るので、保護と通行許可を得てお金をかけずにじっくり友好度を戻していく。 かなり癪だが仕方ない。
1549年、ヨーロッパ方面の地図が手に入る。
完全にオーストリアがポーランドを飲み込んだらしい。 フランスが絶好調で、イングランド本土まで飲み込んでいる。 また、ロシア諸勢力が好調なのかキプチャク・ハンが弱いのかロシア系国家が乱立している。モスクワはちょっと厳しいか。 オスマン帝国とマムルーク朝は息をしていない。 また、珍しいことにポルトガルが本土でも元気である。
この地図を見るにフランスかオーストリアが強大化しそうだ。
1550年。戦争開始から53年経過。国難もすでに32年目に突入。 ブルネイの本土が様変わりしてきた、反乱軍に占拠された土地がバッターニに転向し始めたのである。
バッターニが存在すること事態が珍しい。 どうやら元ブルネイ領から独立→反乱軍の土地がそのまま転向のコンボを起こしているらしく、勝手に領土が広がっている。これは好機か…?
1553年
ブルネイとの戦争がやっと終わった。これ以上ない朗報である。 開戦が1497年なので56年間も戦争していたことになる。 56年間戦争し続けて、「痛み分け」
日本は国土がぼろぼろになり得るものがなく、ブルネイは国土のほとんどをバッターニに取られてしまった。なんと無益な戦争だろうか。
直後、摂政評議会終了。改めて橘浪人が氏族長となる。 行政5、軍事6、外交8と能力は十分に優秀すぎる数字。 どれだけ橘が立ち直るかは浪人の力量にかかっている。
しかし、戦争が終わったからといって国難が終わるわけではない。 あくまでも国難が終わるかどうかというのは確率なのだ。 正直気が気でないが…
1556年、やっと陸軍技術が7に到達。アジア防兵が使用可能に。
1560年、国難は終わっていないが、入植を再開する。戦争が終わった今なら1箇所ぐらいはなんとかなるだろう。
1564年2月。
感無量である。46年間も重石でありつづけた国難がとうとう終了したのである。 これにより税収も上昇。長く苦しい時代はとうとう終わったのだ。
ようやく平穏な時と、入植に励むことができる…。
なお、再発しないために農奴制から自由農民へ舵を切りなおしている。 もうこのような事態は二度と御免だ。 安定度の回復は遅くなってしまうが、仕方ない。忍者ミッションにより中核化はこれにてほぼお預け化するだろう。
同1564年、国難解消から1月後。
将軍、スワヒリに宣戦布告。
また…、また戦争なのか…。あの苦しみをまだ続けるというのか…! しかしこれは幸運にも、他にスワヒリに宣戦布告していた国(ナバラ)がいたため ナバラがスワヒリを併合したことにより2ヶ月で終戦する。
しかし、もはや将軍の座を源に持たせておくのは危険と判断。 というかいい加減、堪忍袋の尾が切れた。
橘氏族、次の目標が決定した。 倒幕である。