コメントで教えていただいたのだが、橘永愷は実在の名前で能因法師の本名らしい。 一つ勉強になった。今回の橘永愷は2世なので、その子孫としてみるとしよう。 とはいえ自分から宣戦布告は出来ないし、入植するにも交易7まではかなり遠い。 しばらくはイベントと施設を作るので手一杯になる。
それはもとよりお金が寂しい。やはり神道の税収-20%は相当なハンデだ。 なおかつ参勤交代令も加わりかなり厳しい懐具合。寺院を建てるのも大変だ。
1458年、視界伝播により、北海道の南端である後志への入植が可能になった。 早速、溜めておいた入植者を派遣する。
1464年、6年がかりで後志を都市へ昇格させる。ちなみに生産品は魚。
1467年、後志が都市であることにより、隣の上川への霧が晴れ、入植可能になる。 早速入植者を送り、領土にする。 ちなみに領土にした端からできれば「忍びの強化」を発動させて中核州にしている。 なお、無事ミッション終了ごとに忍者は解雇している。
1472年、あっけなく橘永愷2世がお亡くなりに。継いだのは橘義仲1世。 義仲という名前だが、軍事はからっきし、しかし行政と外交が高いという氏族長である。 現在の橘にはうってつけの人物なので長生きしてもらいたい。
1474年、無事に十勝にも入植完了。 都市化はまだだがこれで北海道全ての土地が橘領になった。 他の氏族を挟撃することも、あるいは誘い込んで封じ込めることも可能だろう。
その後無事都市化、防衛施設は建てられないが徐々に建てていけばいいだろう…と考えていた。
また、視界伝播により東南アジアの一部の地域の入植が可能になった。 早速、よさそうな土地に入植者を派遣する。
1485年、また将軍がやりました。
ウィジャヤナガル戦勃発。 この時期のヴィジャヤナガルは、デカン・マイソール・オリッサ・コンドワナなどを倒して自領にしたインド地域の強国。 将軍はなにしやがるんだと思ったが、どうも上記の画面を見ると兵士の数が少なすぎる。
よくよく見れば反乱軍に占拠される地域が多い模様。 恐らく急激な拡張で反乱軍を鎮圧しきれず大変なことになっているのであろう。
とはいえ、流石に遠方国すぎる。派遣軍を送らず。将軍の出兵要請を回避することに。
1487年
氏族長義仲死亡。いかにもなんかされたようなタイミングで死んでしまった。 後継者の橘定栄はまだ幼いので、再度摂政評議会が舵を取る事になった。 しかし、なんか今回の摂政評議会はやたら数字がいい。
同年10月、あっさりウィジャヤナガルと痛み分け和平。将軍は何をやりたいのだ…。 不信感が募る…。