■■■ 貴族共和制への移行 ■■■
1573年11月22日、グルジア帝国摂政評議会は元老院と名称を変え、幼帝アンナ1世を即位させ、皇帝権力を全面的に元老院へ移譲する勅令にサインさせた。 アンナは初代グルジア大公として君臨すれども統治せずに数日間のその任期を終えた。
第一回元老院選挙において、ぺブール・ロバキツェ・バレオロゴス(3/7/6)が選出された。外交官出身の皇族だが、その軍事的才能も期待されている。
グルジア元老院はモスクワとの同盟を実現。各分野の技術革新も今までとは全く次元を異にする成長ぶりだ。安定度が+に回復したら貨幣鋳造官を雇用してインフレ対策を進めよう。
□□□ フランス-ポルトガル帝国主義戦争(1575~76)□□□
グルジア共和国初の外征。フランスとの同盟遵守から発生した。チュニスに強襲上陸したグルジア軍だったが、フランスの勝利によって勝負は決さぬまま終了。 フランスはブルゴーニュと人的同君連合を成立させており、今回イベリア半島北部を領土に加えたことによって西欧最強となったことは間違いない。この先イベリア三国とイギリス、そしてオーストリアとの関係に注目したい。
□□□ 対ペルシャモスクワ十字軍(1580~82)□□□
写メでは分かりにくいかもしれない。ペルシャに東西から攻め込んだ図である。 主戦線は東のモスクワ側のようで、フェルガナの戦いという大きな会戦があったようだ。 こちらはこまいのを湧いては潰し湧いては潰し占領地域を広げる。
10年間内政外交にまい進する時間があったが、オーストリアのコソボ侵攻でグルジアはギリシアの領土のほとんどを失ってしまった。いよいよエディルネとトラキアを残すばかりである。なんとなくオスマンプレイ、ビザンティンプレイと同じになってきたのでモチベーションが落ちてきたが、もう少し頑張ってみる。
コンスタンティン・クヴィニタツェ=バグラティオニ(9/6/6) 彼の治世において、ブルガス、ニシェの両プロヴィンスと属国セビリアを失った。 しかしながら、40年に及んだ彼の国家に対する功績を見逃すべきではない。 コメディア・デラルテの初上演、敗戦に沈む国民を鼓舞するために元老院の反対を押し切って行われた祝祭、全国的な裁判所の建設、海賊対策法の可決、ペルシャ戦の勝利、アルメニアの併合、モスクワとの同盟、ポーランドとの同盟、フランスとの同盟の維持、ビザンティンとの交易同盟。 圧倒的な戦闘技術レベルをもつ周辺諸国の中で40年間に失ったプロヴィンスが2つだけというのは快挙と言うべきであろう。
□□□ オーストリアによる第三次ポーランド侵略戦争(1619~23)□□□
ポーランドからの援軍要請にこたえてオーストリアに宣戦。主力はポーランド方面に向かっているはずなのに、緒戦で3倍の兵力でも撃退された。辛くも逃げのびることに成功したが、トラキアを落とされてしまう。あわててペルシャ方面から騎兵12000を移動させてくるが、間に合うのだろうか。 オーストリア軍は海峡を渡れないと見るや、ポーランドへ向かった。ポーランドには悪いがこちらは反撃のチャンス。密偵を5人ばらまき4人成功。後方撹乱はばっちりだ。ミラノに通行許可を打診、Okを頂いたのでジェノヴァの守備兵30000をスイスへ向かわせる。 プルサに逃げのびたグルジア主力の回復を待って騎兵軍とともにトラキア、エディルネを奪還、ブルガスへ侵攻。オーストリアの厭戦感情は20に達し、これは勝てると思いきや、戦力の空白を見てとったペルシャが宣戦布告。これは参った。 ポーランドには悪いが、ここはブルガス割譲でオーストリアと手打ちとしてペルシャ鎮定に向かわせてもらう。国内も暴動の火がついていることであるし。 ペルシャとは結局痛み分けとなった。属国が占領されまくっていたが、野戦で勝利を重ねペルシャ軍を一掃したため、ペルシャから痛み分けの打診があり、快諾した。 オーストリアとの決戦の前にペルシャをどうにかしておかないとまずいと痛感した戦いだった。
そして休戦明けまでの数年次なる戦いの準備に明け暮れ
ついに来るべき時が来たようだ。
□□□ 第一次バルカン戦争(1626~32)□□□
ニシェ再征服を掲げてグルジア元老院議長カイホスロ。ナタッシュ大公はかの有名なオーストリア大公マリア・テレジアに宣戦布告。フランス王ルイ11世はブルギーニュに手古摺りながらも北イベリアを征服した猛者、モスクワ大公ボリス1世は先の戦争でペルシャの東半分を奪いインド北部に侵攻している大モンゴルもかくやという一世の英雄。その二人が同盟を履行して今次戦争に参加。オーストリア側にはイタリアをほぼ制圧しナポリを併合して意気軒昂な神聖ローマ皇帝のミラノのフランチェスコ1世がついた。
序盤は荒廃しきったオーストリア領を占領しつつ前進。イギリスもオーストリアに宣戦し、両軍が切り取り競い合う形でウィーンを目指した。ミラノとイギリスは共にルクセンブルグ家、同族が合い争う形になる。 北イタリア戦線ではフランスとナポリが激しく戦う中、グルジアのジェノバ軍はひたすら守勢をとり続け、ミラノ軍の襲来を跳ね返した。一方西アジア戦線ではナポリ軍にグルジアのアストラハン軍が殲滅され、一挙に戦線は崩壊。モスクワはウラルスクで蜂起した個別主義者の大群に編成するそばから壊滅させられ救援にこれそうもない。アストラハン陥落は時間の問題となった。 ペルシャの宣戦によって、西アジア戦線はさらに状況は悪化。一挙に三国同盟は窮地に立たされるかに見えた。しかしコラサーン、シスタン、カンダハルに攻め込んだペルシャ軍40000は遥かに少数のモスクワ軍に敗れ去り(他人事ではない)ペルシャは早々に和を乞うてきた。そのペルシャからインド北部にかけて展開していたモスクワの軍勢が欧州戦線に到着するまでミラノ軍に西アジアはしたい放題にされてしまうのだった。
オーストリアが国内の反乱に耐えきれずに和平を申し出てきた。ブルガスを割譲させて和睦に応じた。あとは一気にミラノを降す。だがなかなか屈しようとしない。さすがは西の皇帝である。 1632年お互いの厭戦感情がピークに達し、戦争継続は不可能となった。アゾフを割譲させて和平条約を締結。なんとか戦争には勝つことができたのだが・・・
■■■ ナショナリストの蜂起(1632~39)■■■
国内は反乱暴動の嵐の渦中にあった。東西南北各地で蜂起した暴徒たちは潰しても潰しても湧きおこり1632年にはついに政府が屈服し、サライ、ハリコフ、チェルカスク、コーバンがキプチャク汗国にチェルソンがノガイに、カラバクがカラ・ユルン朝に帰属。アルメニアとメンセテが独立を宣言。ジェノヴァもアゾフで独立宣言をした。 国内は平穏を取り戻したが、25%のプロヴィンスを失ってしまった。 しかしながら、財政破たんでインフレが0になったのは怪我の功名か・・・。 1637年には政府側の反撃で、キプチャク汗国とメンセテを攻撃。カラマン、アダナ、クリミア、チェルカスク、コーバン、サライを回復。メンセテは属国とした。 これで再び西部のオーストリア国境以外は同盟国あるいは属国となり、バルカン方面への進出が可能な体制を築くことが可能となった。
■■■ 管理共和制への移行(1653)■■■
ギオルギ・ニコラツェ元老院議長は元老院に平民より選抜された議員の参加を認めた。 以後グルジアはグルジア共和国と名乗ることになった。
このころ、グルジア海軍は再建され、黒海全域~エーゲ海、クレタ海、キプロス湾の治安を守ることになった。
1653年にアルメニアがクレタの人的同君連合下に入り、首都南方の安全が脅かされることになった。
□□□ 第二次バルカン戦争(1672~73)□□□
オーストリアはハプスブルグ家が内戦に敗れツヴァイブリュッケン家に支配権を譲っていた。新興のツヴァイブリュッケン家は国威高揚のためにポーランドに侵攻するも、リトアニア、アンハルトそしてグルジアの介入を招き、孤立無援の戦争をすることとなった。 ポーランドはスモレンスクの参戦によって窮地に立たされ、オーストリアとの和平を、こともあろうか、ブルガスの割譲によって取り付けた。グルジアは優勢なままブルガスを失ってしまった。
□□□ 第三次バルカン戦争(1678)□□□
第二次バルカン戦争は今次戦争の火種としてブルガス問題を残した。ポーランドの行為はグルジア国民にポーランドに対する怒りとオーストリアに対するさらなる憎しみを植え付けた。陸軍レベルが追いついた今、オーストリアに戦闘の優位は全くない。ロシア(モスクワ)式軍制を取り入れたグルジア軍はブルガスに向けて進軍する。
ポーランドは同盟を履行せずにオーストリアに対して中立を宣言。グルジアの反ポーランド感情は加速する。フランス王ルイ11世は存命でこの戦争にも従軍する老黄中ぶり。モスクワ大公ヴァシーリー1世も参戦を表明するが、果たして戦争に間に合うのだろうか。 各衛星国は従順に戦地へと軍を送り、オーストリア摂政評議会は窮地に立たされた。 グルジアはポーランドのようにはいかない。国内は安定し、フランス、モスクワとの同盟は強固だった。 10ヶ月間の戦争でマケドニア、ニシェ、ブルガス、シリストラを奪い返し、ボヘミアの主権を回復させた。
□□□ 第四次バルカン戦争(1684~85)□□□
今次戦争はこれまでの3回の戦争とは違い、グルジア-オーストリア間の領土問題ではなく貿易摩擦に起因する。今回も戦争は短期間で終了。オーストリアはフランスにシュビーツを割譲、シリストラ、ニシェ、マケドニアの領有権を破棄し賠償金750ダカットをグルジアに支払うことを条件に和睦した。
□□□ シレジア戦争とポーランドの崩壊(1689~91)□□□
ボヘミアのシレジア侵攻によって始まった戦争は、ポーランド、オーストリア、モスクワ、グルジアへと拡大した。オーストリアは早々にボヘミアと和平しボヘミアは1プロヴィンスを残すのみになった。ボヘミアは戦力を回復する間もなくシレジアに占領され併合された。しかし戦争は終わらず、ポーランドはブランデンブルグ、スモレンスクからも宣戦され、1691年には国土のすべてを占領されてしまった。グルジア側からの要求はプジャク、ベッサラビアの割譲と150ダカットの支払い、およびウクライナの独立。ポーランドに断ることはできなかった。同じようにブランデンブルグ、そして戦争後半に同盟国であったはずのオーストリアにも攻められ、領土割譲を迫られた。ポーランドは国土を4つに分断され、一気に大国の地位を失ってしまった。
□□□ 第五次バルカン戦争(1705~07)□□□
グルジアによるブルガリア再征服を大義名分とした戦争。当時の列強がグルジア・フランス・モスクワ陣営とブルゴーニュ・オーストリア・ブランデンブルグ陣営に分かれヨーロッパ全域で戦われた。 オーストリアがトランシルバニア、オルテニア、ワラキア、ラリッサを割譲250ダカットを支払って休戦。フランス王戦死によりブルゴーニュが人的同君連合にフランスを組み込む。
□□□ 第六次バルカン戦争(1718~20)□□□
オーストリアとブルゴーニュ=フランスの戦争にグルジアが後ろから襲いかかった戦争。 オーストリアの半分を占領した時点で和平し、ゼタ、アルバニア、コソボ、セルビア、ブルガリアを割譲させ、オルデンブルグとの同盟を破棄させたが、さすがに過剰拡大を適用されてしまいこのありさま。悪評が35.2となってしまい、陸軍技師3名を解雇し、外交官を3名雇った。当分戦争は無理なようだ。
国の焦点をブルガリアに移し、しばらくは内政に打ち込む。 1727年に共和独裁制が選択可能になったが、戦争を決意したら変更することにした。
1735年に共和独裁制に移行。初代護国卿はベブール・バグラッツェ=バグラティオニ三期首相を務めたうえでの就任であった。グルジアが独裁制に移行し、またバグラティオニ家の支配となるのは因縁であろうか。 帝国主義が大義名分になるという恐ろしい政治体制を布いたグルジアは宿敵オーストリアに対してイニシアティヴをとったことになる。
□□□ ブルゴーニュ-オーストリア戦争介入戦争(1736)□□□
ブルゴーニュがカスティーリャに宣戦、同盟の履行を求めてきたので参戦し、属国のギリシア(カッファになぜギリシアという国が生まれるのかは不明)を攻略。オーストリアがブルゴーニュに宣戦したので、カスティーリャと和睦しオーストリアに同盟を理由に宣戦。 クロアチア、ボスニア、フム、ラグーザ、ダルマチアを割譲させ、450ダカットを支払わせ和睦。ブルゴーニュも有利な条件で講和できるだろう。 ジェノヴァ駐留軍の編成は、当初グルジアのアキレス腱となるかと思われたが、オーストリアとの戦争には絶好の後方撹乱のための根拠地となっている。フランスイタリア勢力との友好関係維持が絶対条件であるが。 ともあれ電撃的な勝利を収めたわけだが、過剰拡大と悪評のペナルティのため、20年近くはまた沈黙となるだろう。
18世紀の世界はすごいことになっていた。 西欧はフランスの南半分とイベリアの南半分を有するフランス王国がフランスの北半分を有するブルゴーニュと同君連合を成立させがっちり支配。アラゴンは虫の息、カスティーリャはアフリカに遷都し、アフリカ大陸をおおむね支配している。ポルトガルは北米に遷都し、北米から中米にかけてアバターしている。イギリスはなんとイングランドの独立を許し、そのイングランドが教皇領となりブリテン島を支配している。イギリスもまた新大陸へ遷都している。北欧はスウェーデンとモスクワ(ロシアになれないでいる)が分け取り。モスクワはというと、インドと中国に大進出。インド北部から中央アジアに大きく領土を広げ、インドのヴィジャヤナガル、東アジアの明と戦争を繰り返している。また、ボネにロシアの植民地があったりする。 グルジア-モスクワ同盟は300年の盟友。これがこの世界をこんなにしてしまいました。
1744年ボスニアに国の焦点を移動。
□□□ 対オーストリア帝国主義戦争(1750)□□□
1750年元旦にブルゴーニュ、フランス、モスクワらとともに宣戦。6月21日念願のウィーン占領。イストリア、シュタイアーマルク、ショプロン、バナート、パルティウム、カルパティア、オシエク、ゲルツ、ペーチェ、ソルノク、スラヴォニア、クレイン、ケルンテンを割譲させ、チューリンゲンの主権を回復させた。
■■■ オーストリアの没落 ■■■
グルジアとオーストリアの関係は、接触当初は友好的なものだった。両国の間には共通の敵としてオスマンがあり、同盟してこれにあたった。 オスマン滅亡後も互いにけん制してしばらくは小康状態が続いたが、1513年にオーストリアが突如南下。グルジアはエルディネ、トラキア以外のギリシャの領土を失った。これにより両国は仇敵として280年にも及ぶ断続的な戦争状態にどっぷりとつかることになった。 バルカン戦争と呼ばれる一連の戦争は、グルジアの外交的な勝利であった。グルジアはジェノヴァ通商同盟に所属しアストラハンをその中心地として世界の富を独占。その財力でフランス、モスクワ、ポーランド、ブルゴーニュ、リトアニアなど、オーストリア周辺諸国を次々と籠絡し、戦うときは必ずオーストリアに多正面作戦を強いてじわりじわりと北上を続けた。 18世紀にはいると、グルジアは旧ハンガリー領を併呑しバルカン半島を手中に収めた。1736年のブルゴーニュ-オーストリア戦争に介入したグルジアは、ついにオーストリア本土に侵蝕。以後オーストリアと北ドイツ諸国の戦いに度々介入し、一度はモスクワ、フランス、ブルゴーニュから同盟を破棄されるなど、危うい場面もあったが、1791年に2つ同時に発生したオルデンブルグによるハノーバー再征服戦争とオーストリアによる第二次ミュンヘン再征服戦争の両方に介入し、オルデンブルグを属国化しオーストリアは領土を6つに分ける形でプロヴィンスを割譲させオーストリアをついに二等国へ突き落した。
神聖ローマ帝国の領域内に入り込んだグルジアは、オーストリアを解体し小国を多数成立させた。生き残っていた選帝侯をはじめとする諸候はグルジアかブルゴーニュの属国同盟国となって合い争った。ミラノ、ブルゴーニュとの戦争で、グルジアは黒海北岸と北イタリアの二か所で分断された国境線をつなぐことに成功した。ついでにローマもゲット。 ゲーム終了まで反乱鎮圧でお忙しとなったが、新大陸の王者ポルトガルと北アフリカで対決するなど、グルジアの軍隊はジブラルタルからセウタまで陸路で戦った。
その後のグルジアはヨーロッパ半島最大の軍事力と科学力を持って西に進み革命フランスと対決、さてその結果は・・・。
西アジアから東へ進む道もあったと思う。モスクワは東へ進み明と国境を接し、インド北部を侵食した。グルジアにもできたかもしれない。 16世紀の時点でオーストリアと国境を確定してペルシャからインドへの道を選べばあるいは。
追記 金本位制への移行がちゃんと動作しなかった。わくわくしながらクリックしたのに残念だ。