水の都の物語

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ポルトガル帝国

 ヴェネツィア王国にとっての強敵の一つは、いうまでもなくブルゴーニュ王国でした。十五世紀から十六世紀にかけて、ブルゴーニュは神聖ローマ皇帝と法王庁の御者を兼ね、中央ヨーロッパに強大な版図を有していました。  ところが十六世紀の中頃、伝染病の影響でブルゴーニュのカペー朝は世継ぎを次々と亡くしてしまいます。この災厄にブルゴーニュの宮廷もなすすべがなく、間もなくカペー朝は断絶、ブルゴーニュでは有力貴族たちの摂政政治が行なわれるようになりました。君主が不在になったため、当然神聖ローマ皇帝の地位は剥奪、法王庁も事実上の内乱に陥ったブルゴーニュの影響下から脱しました。  ブルゴーニュの次はなにか? イベリア半島西端のポルトガル王国でした。ポルトガルは十五世紀末から新世界の探索をスローガンに優秀な探険家を幾人も雇い、キャラック船団を大西洋とインド洋に送り出し、あたらしい航路をいくつも開拓していました。彼らはアフリカ東海岸のスワヒリやジンバブエを滅ぼしてインド洋貿易を独占し、新大陸ではコンキスタドールを派遣してインカとアステカを攻撃しました。十六世紀はじめには、ポルトガル王国がカスティリャ王国を継承し、イベリア半島に(アラゴンを除く)統一政権が樹立されました。ポルトガルとカスティリャの合併! それは、ヨーロッパの未知の世界へと通じる窓口を、ポルトガルが独占したことを意味しました。以後、新大陸とインド洋貿易はポルトガル王国の独占状態に置かれます。  これらの航路からイベリア半島に流入する黄金財産は莫大な量でした。きらきら光り、王侯貴族たちを幻惑する黄金の山は、ポルトガルをさらなる征服欲に駆り立てました。ポルトガル船団は、パナマへ、モルッカへ、ニュージーランドへと競い合って殖民していきます。ポルトガル王国は、いまや太陽の沈まない帝国となったのです!  ブルゴーニュで摂政政治が続いているとき、神聖ローマ皇帝の位を継いだのは、ポルトガル王国でした。彼らはアヴィニョンの教皇庁の庇護も買って出ます。ヨーロッパのヘゲモニーを完全に制したポルトガルは、ブルゴーニュを打倒するべく、内戦を制したブルゴーニュ王アンリ・ジュールⅡ世を破門します。  いまやポルトガル王国の権勢は絶頂を迎えていました。

ガリレオ・ガリレイ

 同じ頃、ヴェネツィアの大学に招聘された物理学教授ガリレオ・ガリレイはたくさんの著作を残しています。ヴェネツィアでは、彼の理論的研究は奨励されましたが、かたくななカトリックである彼の政治的信念は、プロテスタントの守護者を自任するヴェネツィア王国には歓迎されていませんでした。また、ルターはかつて地動説のことを「あいつらは聖書の世界観を引っくり返そうとしているのだ」と罵ったことがあります。ガリレオは、そうしたプロテスタントの原理主義的な価値観には吐き気を覚え、かといって天動説に反対する者を宗教裁判にかけるブルゴーニュやポルトガルを頼るわけにもいかず、ヴェネツィアで悶々とした日々を送っていました。  ガリレオの著作の大部分は天文学や物理学に関するものですが、一つだけ、特異な色彩を放っている彼の遺作があります。『世界対話』というタイトルの小冊子です。これは、ガリレオが、新教徒何某と旧教徒何某という二人の架空の人物の対話をつうじて、当時のヨーロッパの政治・宗教のあり方を風刺したものです。こうした意見をまともに表明すれば、いくら比較的言論の自由が奨励されたヴェネツィアでも、弾圧される危険性があったので、ガリレオは、こうした回りくどいやり方をして意見を発表しなければならなかったのでした。  本は、こんな会話からはじまります。  新教徒――私は抗議する。世界に対して。私はラテン語で聖書を読んだ。それをドイツ語に訳しもした。私の弟子たちはイタリア語に訳した。そうした経験から分かったことがある。それは、私は聖書を知っているが、世界は聖書を知らない、ということだ。世界は創世記を読んだこともないのだ。だってそうだろう、いま流行の学者たちが言うように(彼らは聖書の世界観をひっくり返そうとしているのだ!)、我らが大地が宇宙の中心などではないなんてことが本当なら、そして太陽の周りをこの地球が回っているなんてことが本当なら、そんな世界は、聖書を知らないとしか言いようが無いじゃあないですか。  この新教徒は、あきらかにルターのカリカチュアです。彼は、終始このようなまぬけな調子で登場します。他方、彼の対話相手である旧教徒は、こんな具合です。  旧教徒――聖書には真実が書かれている、というあなたの信念に私は満腔の意をもって同意いたします。けれども、世界が聖書を知らない、というあなたの言葉は、たとえそれがレトリックであったとしても、同意することはできません。ねえ、だって考えてもみてください。世界は神の似姿であり、聖書は神の言霊でしょう? そうだとしたら、世界が聖書を知らないなんてことはありえるでしょうか? ほら、たとえばそこの市場にいる学生たちが、「私には眼が三つあり、口が二つあり、手が六本あるのだ」なんて言う事があるでしょうか。たとえそう言うときがあったとしても、たぶんそれは、学生たちが赤ん坊かなにかを脅かそうとしているときくらいのものでしょう。あなたは、世界を見損なっているか、聖書を解釈し損ねているか、そのどちらか、あるいは両方なのですよ。  この旧教徒は、ガリレオ自身がモデルになっている、とよく指摘されてきました。おそらくそのとおりでしょう。この旧教徒は聡明ですが、どこか世を拗ね、卑屈で、皮肉っぽい人物として描かれています。ガリレオが自覚的にこのような自画像を描いたのか、それとも無意識のうちにこうした造形をしてしまったのかは、分かってはいません。  この著作のクライマックスは、新教徒が新教国ヴェネツィアの明るい未来を描き、旧教徒がブルゴーニュや法王庁、ポルトガルといった勢力のちからを指摘するところで終わっています。  新教徒――私たちの王国(ヴェネツィアのこと――引用者)はいまや北イタリアを制してミラノやフィレンツェといった旧時代のライバルを完全に勢力下に置きました。私たちの商人はコルフ島、ナクソス諸島、クレタにキプロス、ロードス、マルタ、シチリアに商館を置き、地中海貿易を完全に牛耳っています。バルカン南部の豊かな生産拠点もみな私たちのものです!  旧教徒――でも、神聖ローマ帝国やローマ教皇は、あなたたちのものではありません。  新教徒――そうかもしれませんが、それは過去の遺物です。  旧教徒――では、地中海の外はどうでしょうか? 新大陸もインド航路もアジアも、ぜんぶ、あなたたちのものではありません。これらの世界は、過去の遺物ではなく、未来を得るための有限の土地なのですが。  新教徒――あなたはなにをおっしゃりたいのですか?  旧教徒――聖俗の権力はいまブルゴーニュの王国が握っており、世界はいまやポルトガルの王国の支配下に置かれています。私たちの王国は地中海の、ほんの一部を手にしているに過ぎません。地中海をゆりかごとして、その居心地に満足しているうちはいいでしょう。でも、ひとはいつかゆりかごから巣立たねばなりません。居心地のよさにいつまでも満足していることはできないでしょう。ねえ、坊や、そろそろ私たちは、この新しい時代に相応しい認識をもつべきではないですかねえ。


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