北欧の雄でありシャーハンシャー(諸王の王)スウェーデンがデンマークの人的同君連合に組み入れられたころの欧州は、神聖ローマ帝国の中興が成り、皇帝ジョアシャン1世の支配がようやく落ち着いてきたところだった。 後に大帝とも、最初の啓蒙専制君主とも呼ばれるジョアシャン1世の治世を振り返る上で、少々整理をしておこう。
啓蒙専制君主とは、啓蒙思想を掲げる絶対君主として理解されがちであるが、そもそも絶対君主と啓蒙専制君主は全く違うタイプの手法で王権を強化しようとした君主を呼び分けたものであることを認識しなくてはならない。 絶対君主が身分団体や経済的特権団体などの「社団」を利用して君主権を強化したことに対して、啓蒙専制君主はその反対に「社団」の弱体化や特権剥奪によって君主権強化を図ったものである。すなわち、啓蒙専制君主とは「上からの改革」を通じて身分制社会の構造を切り崩し、均質な国民を創出した君主をいうのである。
ブロワ朝神聖ローマ帝国の歴代君主をあえて分類するならば、小領邦の棟梁であったシャルル3世、シャルル4世、ルイス2世は封建君主であり、フランス統一国家を完成させたルイス3世から、アンリ2世、アンリ3世は支配領域が大きくなったもののやはり封建君主であった。皇帝に選出されたルイス4世、ルイス5世もそれは変わらない。しかし中央集権化への努力は徐々に結実しつつあった。
絶対君主の代表選手のように言われるフランソワ1世は有名な「L'État, c'est moi 」というセリフを残している。彼とその後に続いたシャルル6世、ジャン1世、フランソワ2世は貴族、教会、ギルドを利用して王権の強化を行ったいわゆる絶対君主であった。この時期、ヴェルサイユを中心とした貴族文化が繚乱となった。
ジョアシャン1世は「ベルリン勅令」で帝国諸候の特権を剥奪し、「ナントの勅令」以来の一連の宗教政策でカソリックの優位性、影響力を低下させ、ギルドの国家管理を強行した。 つまり、啓蒙専制君主と呼ばれるジョアシャン1世の成したことは、フランソワ1世から連なる絶対君主の築き上げたものの破壊である。諸候、貴族の特権を剥奪することによって王権=帝権の強化を図ったジョアシャン帝の1726年の遷都準備令はもう一つの、そして最も手ごわい相手から特権を奪う目的が秘められていた。
ジョアシャン帝はチュニジア戦争で紅海の出口を扼するソコトラ島を得、ソコトラを足場に香料諸島の入り口マラッカを征服した。東アジアへの足掛かりを得たジョアシャン帝は1729年5月に「東インド会社設立」の勅令を「株式会社法」と合わせて発布した。
1729年8月27日にケルンの再征服を掲げてジョアシャン帝は宣戦布告した。しかし帝国の言い分を帝国が再興した際に参加しなかったオーストリア、プロイセン、プファルツ、ヴュルテンベルク、アンスバッハの各国は帝国の領有権を認めず、反抗。もっとも、領有権を認めてしまえば、同じく帝国から離反した自国の拠って立つところを失ってしまうのだから当然ではあった。
ケルン再征服戦争において特筆すべきことは、東部方面軍を預かるヘクトル・ブリルツ将軍はいわゆる第三身分の出身のドイツ人であったということである。
数代前に絶頂期を迎えたフランス貴族主義は新大陸の発展と帝国領域の拡大に伴って商圏が拡大し力を付けてきた商人階級の台頭によって衰退しつつあった。陸軍士官学校出身の第三身分、被征服国出身の将軍がすでに多く輩出されて陸軍の将帥の勢力地図は変わり始めていた。陸軍の勢力図は帝国の縮図でもあった。
商工者の相対的な地位向上を貴族や僧侶の力を削ぐために利用したジョアシャン帝によって発布された1727年の詔、いわゆる「権利の章典」は第三身分および被征服民に一定の人権を保障する内容で、すべての臣民という形で皇帝以外のすべての人間の権利を保障すると同時に制約した。貴族や僧侶等の特権階級から反発は当然受けることとなったが、「権利の章典」によって均質な国民を創出することで帝権の強化を図るジョアシャン帝はその全ての反対意見を黙殺した。
均質な国民を創造するつもりであったジョアシャン帝にとって、中興したローマ帝国には宗教の壁は必要なかった。以前の帝国であればキリスト教を国教とする国以外の加入はできなかったが、「新生」ローマ帝国はムスリムだろうがブッディストだろうが加入可能だった。(征服しちゃうから加入申し込みとかないし)ジョアシャン帝の打ちだした帝国の内政政策は民族や階級だけでなく宗教的にも改革を行う内容であった。かつてルター派と呼ばれた一部宗教家による反カソリック教会運動が起きた時期があった。1733年の現在ではノルウェーの一部とアイルランド島のみでその教義が信奉されている少数派だが、ジョアシャンが採用した内政政策はその少数派の教義を取り入れ、あるいは応用したものだった。つまり個人が教会を通じずに直接神と相対するという教義を、世俗の特権階級などを介さずに臣民が直接皇帝に相対する形をとることで完成する、少なくともジョアシャン帝はそう考えていた。 「ナントの勅令」はカソリック以外のキリスト教の各派の信仰を許容し、「博愛の精神」と呼ばれる1727年の勅令は事実上異教の存在を認める、宗教的な壁の撤廃ともいうべき勅令であった。
時の教皇イウリウス2世は皇帝の「ナントの勅令」「博愛の精神」なる悪魔の策謀がヴァチカンの帝国内での地位を相対的に貶め、「権利の章典」が教会をムスリムと同等のものであると規定したことは看破していた。しかし、圧倒的な兵力差は神の代弁者といえども皇帝と対等に話すことを困難にしていたし、数百年間のオック人による属国的な支配によって、ヴァチカン内部においてすらイウリウス2世は迂闊に自らの考えを口に出すことはできないでいた。それでもこれまでの皇帝は、教皇に対して腫れ物に触るように接してきたものだった。イウリウス2世はジョアシャン帝の施政になにやらいやな予感を覚えていた。
皇帝の新しい勅令が帝国内に沁みわたると、 「皇帝は教皇の御者だが、最近は御者が馬車に上がるときに教皇が身をかがめ、御者はその背を踏んで上がるらしい」「いやそうではない。皇帝は教皇の御者だが、行く先を決めるのは御者の方らしい」ローマ市内ですら口さがないものはそう言って、教皇を肴に酒を飲むという。 ヴァチカンの相対的地位の低下を狙ったジョアシャン帝の政策は功を奏したといえた。 皇帝は次の一手を打つ準備を終えたと判断した。
ギルドの国家管理、国立銀行の設置、東インド会社の株式を国家が保有、帝国の経済政策はジョアシャン帝の代に大きく前進した。 帝国の次なる課題は90年前からの事業であるインフレ問題であった。ヴェルサイユ宮殿造営担当者として有名な財務卿セバスティアン・ル・テリエの創始した対インフレシステムは開始当初68.1ポイントという酷い状況を、90年後の1730年代には40.6ポイントにまで減少させていた。現在、王朝の正統性と悪評低下のために、財務担当官を雇用する枠がなかったが、1730年代後半には外交重視(正統性及び悪評対策)の人事を財務重視の人事へと刷新する用意があり、インフレについてはもちろん、金本位制導入に向けた長期的な経済対策が進行中であった。
ジョアシャン帝の征服事業といわれるものは、実は多くはない。戦争は慢性的に行っていたが、帝国の公文書には「叛徒の平定」「反乱鎮圧」と記録される帝国領域内を対象としたものであったからだ。 度重なるジョアシャン帝の征服事業は国内には叛乱、諸外国からは非難を浴びていたかのように後世言われることがあるが、帝国中興の完成されつつある1730年代の初頭での帝国の悪評は10.0、厭戦感情は6.71でしかない。安定度は+3で国威は+99。この時点で問題なのは正統性が38であることだが、オーガスティン・デ・エキュールの+6.0厭戦感情-1.3で毎年4.7の上昇が見込まれている。25年前のベルリン勅令のときのよりもむしろ好転していた。 帝国中興までの、また中興後の統合戦争において、「帝国主義」もしくは「再征服」での戦争を徹底し、短期戦を行えるよう準備を整えた戦争運営の成果であった。
1733年にモデナの帝国復帰(領有権)を主張して、いわゆるモデナ戦争と言われる大義にはイタリア戦争序盤の戦争が始まった。北イタリアを戦場とした戦争は数カ月で決着がつき、フィレンツェ、ピサ、シエナを帝国へ復帰(割譲)させた。
1734~35年には対ブルガリア戦争が起った。こちらはイベリア、新大陸以外での初めての帝国領域外への征服戦争で、ゼタ、コソボ、マケドニア、エディルネ、トラキアを帝国領土に加えることに成功した。 しかし2年のうちに悪評は16ポイントも上昇。厭戦感情は2ケタに達した。
ジョアシャン帝は4年の冷却期間をおいて、イタリア戦争中盤戦というべき、ナポリ戦争を開始。アンコーナ、アブルッツィ、アブーリア、カラブリアを帝国に加えることに成功した。 つまり、教皇領包囲体制は完了しつつあったのだった。
1742年1月、ジョアシャン帝の帝国宗教政策は最終局面を迎えた。 帝国は教皇領からの防衛部隊を退去。防衛費負担義務を解除した。これは属国として収入の50%を帝国に納めずに済むということで、教皇領としては負担が減り喜ぶべきことである、と皇帝の使者は親書に添えて言った。その、さも有難がれと言わんばかりのいいように教皇は憤慨したと言われる。
翌2月には、「上告禁止法」を発布。同法はあらゆる宗教問題の最終決定権を皇帝に委譲するものとされた、実質的に教皇の降格を法的に定めたものであった。 教皇は御者に振り落とされたのだ。
5月、満を持してジョアシャン帝は「上告禁止法」を承諾しない教皇ピウス6世に最後通告をおこなった。教皇はヴァチカンを明け渡すよう求めた。
当然教皇はそれをよしとせず、カソリック諸候に聖戦を呼び掛けた。ここに、教皇戦争(イタリア戦争)が開始された。この戦争がイタリア戦争とも呼ばれるのは、トスカナ、ナポリ、パルマのが教皇側について参戦し、イタリアのほぼ全域で戦われた戦争であるからだが、1733年のパルマ侵攻からの10年間を指してイタリア戦争とすることも多い。いずれにせよ、この10年で力を削がれたイタリア諸候が結集したところで、帝国陸軍に対して抵抗らしい抵抗を行うことはかなわなかった。
シャルルマーニュの寄進状によれば、800年にカール大帝によって教皇に寄進されたとされるローマは、ルネサンスの一大中心地として栄え、一時はフランス、オーストリア、ナポリ、カスティーリャ、イングランドなどの王を破門し屈服させるなど、欧州の大実力者の居城でもあった。 ローマの街並みは古代帝国の首都の頃とはだいぶ様子が変わっていた。ルネサンス期から対抗宗教改革期のバロック様式、近年のロココ様式の建物が17世紀以降に区画整理された3本の道沿いに並んでいた。 1742年7月11日、イタリア方面軍司令ベルナール・オールネー将軍はローマ入城を果たした。 永遠の都ローマにローマ人以外の軍靴の音が響くのはここ数百年珍しいことではなかったが、今回ばかりはローマの市民たちも事の成り行きをじっと見守っていた。
占領されたヴァチカンを含むローマ全市は皇帝の直轄地として教皇ピウス6世から召し上げられた。教皇には新たにサルディニア島が与えられ、ローマは神聖ローマ帝国の一部となった。帝国内での「宗教改革」はこれにより勢いを増した。「ナントの勅令」以降非カソリックに科されてきた十分の一税もこの機会に廃止された。カソリックは他宗派と同じ扱いとされ、異教についても一定の税を納めることによって帝国内での信仰を許された。「博愛の精神」とは言うものの特権的カソリック聖職者にとっては、皇帝の愛など感じる事はなかった。カソリック聖職者の春は終わり、突然冬がやってきた。
イタリア戦争自体は1743年12月のトスカナ降伏まで続けられたが、ジョアシャン1世はその3か月前、ローマ視察からの帰還途上、病に倒れ治療のかいなくフィレンツェで9月19日に崩御した。 カソリック信仰が特に篤い地域であったため、原理主義者による暗殺の噂もあった。原理主義者からすれば、教皇をサルディニアへ同座させるなど神に対する冒涜であり、皇帝の死は神罰であり当然の報いであって、暗殺だろうが病死だろうが、それ見たことかとプロパガンダに利用した。しかし、当の教皇本人は、この事件が折角一命を取り留めた教皇庁を再び危機に陥れるのではないかと気が気ではなかった。
ルイス6世は幼少の頃より、神に愛された才能を持つ皇太子との誉れ高い人物で、ブロワ家始まって以来の天才だった。一芸に秀でたブロワの棟梁は何人もいたが、外交、行政、軍事の全てにおいて高い能力を発揮しうる才能をもって生まれたのは、ブロワ家の歴史上ルイス6世が初めてだった。
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ルイス6世の仕事はまずイタリア戦争を終結させることであった。先帝の死に幾ばくかの謎があったとしても、それを荒立てるつもりはなかった。帝国としては皇帝が暗殺されるなどという事態を公認するわけにはいかなかったし、最重要地域ではあったが、イタリアだけに手を煩わせているわけにもいかなかった。
アフリカに国家が移動してしまったトスカナを攻略すべく派遣したノートルダム騎士団(1.5個師団相当3万名)がチュニスを陥落させたのが1743年12月初頭。その後チュニスの割譲とモロッコの独立を認めさせ、トスカナは降伏した。
イタリア戦争によって、イタリア半島の非帝国領域はパルマ、ナポリ、ロマーニャの3州のみとなった。ナポリ王国を解体した際に建国されたシチリア王国が新たに地図に書き加えられた。トスカナとパルマは北アフリカに領土を保持していたが、数年単位でその維持が可能かどうかも怪しい状態だった。 イタリア戦争終結直後の悪評は47.3、国威、正統性は共に100、厭戦感情は8.35、安定度+3、国庫には20471ダカットの蓄財、インフレは20.7であった。 悪評47.3/38.0はルイス6世政権の能力をもってすれば、4~5年で悪評限界内に持っていくことができると考えられた。
この半年というもの、外交官ミシェル・ド・ロシュモルは多忙だった。 イタリア戦争の後始末と新帝の即位で帝国重臣はだれもが程度の差こそあれ忙しかったのだが、ミシェルは多忙という文字を当てて表現するのが生ぬるいくらい忙しかった。
プロヴァンス=フランス時代に内閣制が取り入れられたのは17世紀のことだったが、神聖ローマ帝国となってからは実際に組閣を命じられたのはエキュール退役元帥が初めてだった。人望、決断力ともに申し分ない人物だったし、老境に差し掛かった経験豊富な、育ての親とも言うべき忠義の臣を内閣という皇帝の諮問機関の長に据えるのはルイス6世にとって最良の人事であった。
5月半にエキュールはチュニス及びアフリカ軍団視察に向かうためにマルセイユへ向かうことになっていたのだが、出発を間近にした朝突然帰らぬ人となってしまった。オーガスティン・デ・エキュールの代わりに首相となったラウル・ド・ラ・トゥール・ドヴェルニュは後任外務卿としてミシェル・ド・ロシュモルを推挙したのが半年前。以来ミシェルは、働き過ぎで胃に穴があいたという往年の名宰相ジョルダン・ド・リベルタもかくやというレベルで仕事をこなしていった。 彼を忙しくさせていたのは来年9月に予定されている戴冠式だった。ルイス6世の戴冠式はローマで行う。対外的なデモンストレーションとして、国内の諸侯に対してもローマで行う意味は大きい。なにしろ、ルイス6世はローマ帝国の皇帝なのだから。 さらに今回の戴冠式は教皇との決別と宗教的な平等を示すためのショーとしての位置付けが、外務卿の守備範囲であると敬愛するルイス6世に微笑しながら言いきられては、ミシェルにできることは胃に穴があいても働くことだけだったのだ。外務卿の職分は現代の外務大臣の仕事にだいぶ近いものとなってきてはいたが、戴冠式の仕切りを聖職者から奪うことが今回の戴冠式の目的でもあったため、彼の休息は戴冠式が終わるまであり得なかった。
新帝の戴冠式は帝国再興の宣言がされてから初めてである。諸侯の盟主ではなくローマ皇帝としての戴冠であり、以後王朝が続く限り踏襲されていくであろう大事な戴冠式だった。 新帝は、プロヴァンス、フランス、ドイツ、ボヘミア、イタリアの王として別々に戴冠式を行う。エクスにはじまりパリ、ミュンヘン、プラハ、フィレンツェと巡り、最後に皇帝の冠を頂くためにローマへやってきた。
ブロワ朝が復興させるまでの帝国は、「神聖」の定義や根拠が曖昧で、「ローマ帝国」と称してはいるが、現在のドイツからイタリアまでを領土としているもののローマは含んでおらず、さらに「帝国」を名乗りつつも皇帝の力が実質的に及ぶ領土が判然としない国であった。それが今回の戴冠より、「ローマ帝国」としての体裁が整うことになった。
ローマへ到着した新帝は翌日、サン・ピエトロ大聖堂へ向かった。 サン・ピエトロ大聖堂は、その装飾と外観は宗教芸術の粋を極め、建築物自体が宝物であるかのようだったが、その建設費用を調達するためとして贖宥状(いわゆる免罪符)が発行され、マルティン・ルターによる宗教改革の直接のきっかけになった、非カソリックにはいわくつきの建築物である。
ルイス6世の戴冠式は今回そのサン・ピエトロ大聖堂で挙行されたが、従来の成聖式ではない。皇帝は聖職者に聖油を与えられるのではなかったしその聖職者も教皇ではなかった。皇帝は膝まづかず、聖油の入った器から自分で油を塗った。そして冠も自らの手によって頭に戴いた。 いわくつきの大聖堂で既存の聖職者の権威を無視して見せることで、政治的に教皇の地位はまた下げられることになった。ルイス6世は彼の外務卿の演出に満足した。
「海上覇権の獲得」が急務である。それはジョアシャン帝の御世からの課題であった。 ルイス6世の時代に海軍増強計画が完了し、戦闘用ガレオン57隻が次々に竣工、扶養限界の164隻に達した。帝国海軍は100隻の戦列艦(戦闘用ガレオン、ガレオン、カラベル)をリューベックを母港とする北岸艦隊に30隻、マルセイユを母港とする南岸艦隊に30隻、ルイジアナ艦隊に30隻(うち10隻は隷下のカリブ海艦隊)、東洋艦隊に10隻の4つに分けて配備。輸送艦隊はA~Cの3艦隊。A艦隊25隻は北岸艦隊と、B艦隊25隻は南岸艦隊と共に配備、C艦隊12隻は基本的に東洋艦隊と行動を共にするが、単独での封鎖任務を行うことが考えられるため、戦利捕獲艦のガレアス級を2隻配備した。
世界最大の海軍を建設したとはいえ、各艦隊の担当正面では、仮想敵国海軍との戦力差は圧倒的ではなかった。カリブ海やマラッカの艦隊は未だにカラベルを装備していたし、コグが混じっている輸送艦隊もあった。 帝国は欧州という巨大半島の北岸と南岸にそれぞれ艦隊を配備していた。北岸艦隊はバルト海、北海を担当し、南岸艦隊は東地中海、黒海を担当した。イベリア、ブリテンの諸国と事を構えるときは南北の艦隊をジョイントした連合艦隊を編成しこれに当たることになるが、その3つの戦域で同時に戦争するということは想定されていなかった。また、海軍に重きを置く国に比べても異常なまでに大きな輸送艦隊の編成は、上陸作戦を伝統的に多用してきたブロワ家の戦争によって特化したもので、帝国海軍の特徴ともなっていた。
1745年4月に始まったオスマン-帝国懲罰戦争と、1748年の7月、12月に戦われたアルバニア再征服戦争と南イタリア戦争によって、小アジアと北アフリカに領土を獲得、拡大した帝国は東地中海の制海権をほぼ掌握した。帝国南岸艦隊にとってこの戦域で脅威となりうる海上兵力はスウェーデン海軍のみとなった。
ジョアシャン~ルイス6世の治世で中央集権化が図られたとするのは間違いである。 両帝の事蹟は中世的権威と特権の撤廃であり、「上からの改革」を通じて身分制社会の構造を切り崩し、均質な国民を創出した啓蒙専制君主による統治のはじまりであった。 ルイス6世はその治世の晩年に議会解散法を1748年9月5日に、鉱業法を11月10日に制定した。 貴族らの議会を上院、第三身分の議会を下院とし、両院は3年ごとの議会の解散、再招集を行うものとした。これは皇帝の権力低下になったと言われるが、そうではない。二院の地位を同等と位置付けたことにより、特権階級の地位を低下させているので、相対的に皇帝の地位はさらに貴族から遠い存在になった。 しかしながら、第三身分と呼ばれる人口のほとんどを占める階層の地位向上は、帝国にまた新たな進化を要求してくるかもしれない。
1752年7月13日、ルイス6世は自らのなしたことの影響を見る機会のないまま永眠した。 享年35歳であった。
前章よりのジョアシャン帝の目論見はローマ征服、教皇追放で一段落しました。 ですが、まだ遷都は行われていません。遷都を行うにはローマが中核化する1799年を待たねばならないのです。 この物語ではジョアシャン帝は絶対主義から啓蒙専制君主への過渡期、あるいは先駆けとして登場しています。実際の欧州では色々な国で様々な過程を経験して成立していくのことなのでしょうが、この物語では帝国がNATOのような領域のを一元支配するため欧州では、政治と宗教の多様性が起きていません。プレイ年限まであと70年弱ですが、この先どうなって行くのでしょうか。