プロヴァンス伯の時代からの登場人物がほとんどいなくなってしまった機会に、これまでの足跡を振り返ってみよう。
1399年11月、シャルル・ド・リベルタらによる下からの宮廷革命によって、アンジュー=ヴァロワ家の支配から脱したプロヴァンスは2年間の独立戦争を戦い勝利した。 15世紀に入るとフランス王、ブルゴーニュ公によるオック圏への干渉を辛くも乗り切り、英仏百年戦争に乗じてプロヴァンスはフランス王に対して優位に立つことに成功した。またこのころ列強に先駆けて新大陸を発見、アゾレスとマスコギーに橋頭保を建設した。 ルイス2世の治世にフランス王を北フランスに追い詰め、イングランドとの百年戦争のフランス側の盟主として戦うが、ルイス2世の戦死によってプロヴァンスは十数年に及ぶ混乱の時代を迎えた。後継者のルイス3世は混乱を平定し、フランス王位についた。 皇位につくため皇帝との争いを続けながら、ルイス3世は西フランクと呼ばれていた領域のほとんどを征服。玉座を目前にして寿命を迎えた。 短命なアンリ2世のあとを受けたアンリ3世は未だ4歳。フランスは3度目の摂政評議会を招集し、国難に対処することとなった。
まもなく4歳になろうという王子アンリ3世は、父の喪主を母に抱かれむずがりながら務めた。そしてその日のうちにフランス王となるのだが、戴冠はこの時行われていない。 フランス王の戴冠は代々ランスで行われた。ランスはフランク王クロヴィスの洗礼の地であり、フランス王はその王権の根拠を、ランスに保管されている聖油による聖別を受けてクロヴィスの後継者となることに求めたためである。その背景には、ローマ教皇にローマ皇帝冠を受けてローマ皇帝とカール大帝の後継者となるという方法を、オットー大帝以降、ドイツ王に独占されてしまったという事情がある。百年戦争の混乱の中でシャルル7世は、イングランドからランスを奪還するまで戴冠できなかった。(ウィキペディア)ブロワ朝もこれを継承、先々代ルイス3世、先王アンリ2世はノートルダム大聖堂で戴冠を行った。アンリ3世もこれを継承するべきであり、戴冠は後日日を改めて挙行された。
帝位争奪戦はルイス3世の御世に選帝侯の過半数を抑えた時点で決着がついたかにみえた。しかし、ルイス3世亡き後、欧州最長老となった皇帝マクシミリアン1世・エマヌエルは、アンリ2世の早世と幼君へと継承されたフランスから1553年3月25日選帝侯位を剥奪した。老練な皇帝と第三代フランス王の戦いは水面下で行われていくことになる。
神聖ローマ帝国はバイエルン大公マクシミリアン1世・エマヌエルを皇帝に戴き欧州半島のほとんどを領域としていた。しかし、内実はスイスから小アジアまでの領域を支配するオーストリア大公国、リガからボヘミアまでを支配するプロイセン王国をはじめとして、ミラノ、ブランデンブルク、ブラバント、トランシルバニア、フランスと、皇帝であるバイエルン大公国よりも巨大な勢力の均衡によって帝国は保たれているにすぎなかった。皇帝の威光は20世紀の西ドイツほどの領域にしか届かなくなっていた。 帝国の交易圏を三分する商業勢力である、ヴェネチア、ジェノヴァ、ハンザはヴェネチアはアクイレイア選帝侯に、ジェノヴァはフランスに、そしてハンザ同盟の中心地であったリューベックとハンブルクはロシアのツァーリの支配下にあった。
モスクワ大公国はプロイセンと結び、宿敵キプチャク汗国を滅亡寸前にまで追い詰め、国号をロシアとして大平原の帝国としての地歩を固めつつあった。また、ハンザ同盟との戦争に勝利したことによって、ロシアはバルト海の交易を支配しており、スウェーデン、プロイセンとの経済的な関係も深めつつあった。その盟邦プロイセンはバルト海沿岸からポーランド、リトアニア、ボヘミアを併呑。帝国内に大きな勢力を形成していた。プロイセンの南進はさらに続き、ウクライナの領地を分断。ロシアと共にキプチャク汗国を倒した大帝国オーストリアと長い国境線を挟んで対立。このあたりが東欧の争点となりそうだ。 また、プロイセン王ウルリヒ1世はポルトガルの王位継承権を有しており、子のないジョゼ1世がこのまま亡くなった場合、カスティーリャとのあいだに継承戦争が起こる可能性があった。 北欧ではスウェーデンがスカンジナビア半島を統一。デンマークを支配するロシアと東西で国境問題を抱えている。スウェーデンは先年フランスとの戦争で海軍を壊滅させられており、バルト海の制海権を完全に失っていた。 バルカン半島はオーストリアのオスマン侵攻でオーストリアとその忠実な同盟国クロアチアに支配されていた。オーストリアの後ろ盾を得ていたクロアチアはアドリア海のバルカン半島側沿岸を南進、アテネに達している。 小アジアはオスマンの崩壊によって小国分裂状態。イスラムの盟主は依然マムルーク朝で、東地中海南岸を支配している。
イベリアのカスティーリャとポルトガルはアフリカ、新大陸の征服を猛烈な勢いで行っていた。特にカスティーリャは南北新大陸の部族国家、アフリカ諸国家を征服し、汎大西洋帝国を形成しつつあった。(こちらよりもよっぽど属州がいっぱいである。) ポルトガルは旧アラゴン、ホラントの玉座を継承して100年になろうとしている。
イングランドは昔日の勢いを失い、逆に勢力を盛り返したスコットランドに追い詰められていた。ウェールズ、アイルランドも健在で、連合王国成立はまだまだ遠い。スコットランドはブルターニュを失い、イングランドはリグーリアを失った。ブリテン島諸国の欧州大陸領地は消滅している。ブルターニュはスコットランドに代わりアイルランドが人的同君連合を形成し支配していた。
オーストリア、フランスの北からの圧力でミラノは窮地に立たされていた。ナポリ、ミラノ、教皇領とイタリア半島で覇を争うアクイレイア選帝侯。
ロシアとマムルーク朝以外の列強すべてがカソリックであるため、宗教改革は下火である。 帝国内ではプロテスタントを国教とするバル、ブラウンシュバイク選帝侯と改革派を奉じるバイエルンの3カ国のみが非カソリックである。
外交的には屈辱を味わったフランス王とその摂政評議会であったが、依然として次期皇帝はフランス王のものである。よりアグレッシヴな対応は幼君の成人までは耐えるしかないが、内政の充実のための時間を考えれば今後約10年という歳月は決して無駄ではない。 フランス摂政評議会は、全土に裁判所、地方裁判所を設置し、その統括機関でしての最高裁を設立。司法制度法を可決した。プロヴァンスのころに比べてはるかに広大な領土を安定的に支配するためには、これまで以上に強力で中央集権的な統治機構が必要だった。 植民事業はこの時期五大湖南岸を西へと広がっており、ヒューロン族との接触、長大な国境線をもつカスティーリャ植民地との軍拡競争は、戦争を抑止するために継続せねばならず、戦争のない期間も陸海軍の拡張と維持は行わねばならず、フランスの経済状況は必ずしも良いものではなかった。幸い属州の増加によって軍拡によるインフレの増加もそれほど右肩上がりにならずに、周辺諸国への抑止力を維持することに成功していた。
時は流れ、1559年2月8日。15歳のアンリ3世は親政という形で国を治めることとなった。アンリには当然まだ子はない。しかし後継者不在はフランスのパワーダウンとなる。摂政評議会はアンリ3世の即位と同時に、14歳の弟ルイス(ルイ/Louisなので今後もルイスと表記)をプロヴァンス公として後継者を明確にしておくことにし、アンリ3世に署名させた。 この時期フランスの中央集権化は停滞期を迎えていた。貴族を中心とした摂政評議会は11年に及び、その間に貴族の力は増してきていた。アンリ3世は祖父の代までのように貴族を無視して政治をするわけにはいかなそうであった。
ミシェル・ノートルダムという男がプロヴァンスで著した四行詩集にそんなくだりがあったという。どうとでも解釈のできそうな詩だが、「Bloisの大物が友を殺すだろう」というくだりが不敬だということで、この男は捕縛された。ノートルダムの本業は医者で料理研究家だというが近頃は「暦書」と呼ばれるカレンダーに予兆詩を書き加えたものをを著し近在で知られていた。 この男の捕縛後に司法官が難解な四行詩を識者に解釈するように命じたところ、識者解釈はこうだった。
後半2行は未だ実現していないが、この事件で彼の暦書をはじめとした預言の類が世に知られるようになった。ノートルダムの処分が決定される頃には、彼はパリでも有名人になっていた。結果、ノートルダムは不敬罪には当たらないと釈放されたのだが、解放はされなかった。問題のこの詩集が作られたのが1550年台前半のことだったことが判明し、この後ノートルダムはパリに連れていかれ、アンリ3世に目通りしている。
ミシェル・ノートルダム、ペンネームのノストラダムスと言えばおわかりだろうか。
その後彼はフランス宮廷で予兆詩を書き続けることになる。
この詩も、ブロワ朝成立前のヴァロワ朝と革命政の滅亡によって、傍系のブロワ家がフランスの王の座についた。諸侯は不満を槍で表し、フランス王は力で反対する諸勢力を抑えた。と解釈され、ノートルダムは予言者として尊敬を集めだした。 彼の作った暦書を実際の農業の参考に使う領主や、貴族の子女の中ではこれこそ自分の運命の詩であると、詩を写し書きして枕元に置いて寝るものもいた。 そのうち、責任ある立場の者の中にも四行詩を解釈するのが流行しだした。アンリ3世もその一人で、ノートルダムをペンネームのノストラダムス師/Rev Nostradamusと呼び、解釈に夢中になった。アンリ3世は次の二つの詩がお気に入りだった。
ノートルダムが宮廷に上がった日に、朕がこの二つの詩を予言と言わしめようぞ、とわざわざ声をかけたほどであった。果たしてアンリ3世はどのような解釈をしたのであろうか。シランとはアンリの綴りをもじったものとも言われている。 答えは歴史の先にある。
1559年5月12日にブルターニュに対して再征服を理由に宣戦。 ブルターニュ半島のカソリック叛徒がフランスに帰属してきて来た折から、その叛徒軍である第一カソリック軍を率いるジョン・クリントンは敬虔なカソリックであり、反宗教改革を標榜するフランス王に対して忠実な十字軍である事を誓っていた。クリンストンは開戦と同時にヴァンデに侵攻を開始した。改革派の守護者であるアイルランド王はブルターニュ救援を宣言。しかし、クリンストン率いるキリスト教原理主義者の軍勢はヴァンデを開戦からわずか20日で陥落させてしまう。 海軍の第一艦隊17隻のカラヴェルを率いるジョアシャン・ド・サン・ジェルマンはキブロン湾を封鎖した。ブルターニュの宗主国アイルランド本土への侵攻も視野に入れて第二艦隊21隻のフルートもフィスティニールに待機した。 アイルランド海軍が出撃してこないと判断すると、第一カソリック軍をアイルランド本土へ海上輸送することを決定。 7月26日マンスターに上陸した第一カソリック軍はマンスターの首府コークを占領。しかし、アイルランド軍はアゾレス諸島へ侵攻を開始した。8月3日、アゾレス諸島に上陸したアイルランド軍をアゾレス守備隊が辛くも撃退。しかし、アイルランド軍は8月18日に二次上陸を敢行。アゾレス守備隊は玉砕した。 アイルランド本土の戦いは、8月22日にコノート占領と順調であったが、戦争の長期化を望まぬアンリ3世はアイルランド王エード7世に属国ブルターニュの併合を認めさせ和睦とした。(人的同君連合下位国併合で+8.0、累積悪評19.3)
休戦が発行した9月5日、勲功第一のジョン・クリントンは恩賞の替わりに「礼拝の義務化」をアンリ3世に提案することを許された。対抗宗教改革を採用しているフランスにとってカソリック勢力との融和と協調はもとより国是であり、国策として採用することとした。(安定性費用-33.0、教皇への影響力年間+5.0) また、9月16日にはブロワ朝の先達5人の偉業をたたえる記念碑がエクスに完成した。(300ダカット減少。政務官5人減少、悪評-0.05、国威年間増加率+0.5)エクスの記念碑は巨大な噴水の上にブロワ朝の先達5人の像を頂いたもので、噴水の街にふさわしいものであった。
しかし、11月も末になろうという頃、貴族が先の戦役での報酬を要求して運動を開始した。平民の出であるジョン・クリントンの活躍と、勲功第一の彼の恩賞が領地でも位でもなかったことから、全般に恩賞が低いレベルになったことで、従軍した貴族が不満をあらわにしたのだ。アンリ3世は貴族の要求を無視。パリは一時騒然としたが、この時は大きな事件には発展しなかった。
1561年8月26日、アンリ3世の妹マルグリットと娘エリザベートがそれぞれ結婚することを祝う宴に際して行われた馬上槍試合で、アンリ3世は対戦相手のモンゴムリ伯の槍が右目に刺さって致命傷を負い、9月10日に没した。現代には、しばしばこれがノストラダムスの予言通りだったとして大いに話題になったとされる。
アンリ3世の弟ルイス4世はフランス王となり2年が過ぎた1563年11月3日、皇帝マクシミリアン1世・エマヌエルは84年の生涯を終えた。選帝侯はルイス4世を皇帝に選出。 神はようやくフランスの若き王に帝冠を与えたのだった。
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フランス王の神聖ローマ皇帝冠の戴冠とはどのような意味をもつものなのだろうか。
ルイス4世は、戴冠式をアーヘン大聖堂(エクス・ラ・シャペル/Cathédrale d'Aix-la-Chapelle)で挙行する。そこで塗油の儀を受けることにより、自分がカール大帝の遺志を継ぐ者であることを世に示した。 戴冠式を取り仕切ることを命じられたトリアー公爵選帝侯カール・カスパール1世は感激した。カール・カスパールの家は先代ヤーコブ1世の時にフランス公爵として封じられる前は大司教区を統べる大神官であった。戴冠の儀式自体を執り行うわけではないが、自領内での歴史的な出来事を取り仕切る、この日のために自分の今まではあったのではないか、そう感じてもいただろう。
ケルン司教区にあるガラスの礼拝堂アーヘン大聖堂はしばしば「皇帝の大聖堂」(ドイツ語:Kaiserdom)として言及され、この大聖堂は北部ヨーロッパでは最古のものである。786年にカール大帝がアーヘンの宮殿教会の建設を始めた。814年にカール大帝が死ぬと彼は自身の大聖堂に埋葬され、彼の骨はいまも特別の神殿に保存されている。 大聖堂は、一千年以上の時を経て、現在の装いを調えた。 アーヘン大聖堂の中心は宮殿教会である。それは後世の増築部分と比較すると驚くほど小さいが、建設当時は、それはアルプス以北では最大のドーム建築であった。 古典主義様式、ビザンティン様式そしてゲルマン様式-フランク王国様式の要素を備えた心を奪う建築は、きわめて重要な記念碑的建造物の真髄である。アーヘン大聖堂は、936年から1531年にかけての約600年間に神聖ローマ帝国の30人の皇帝たちの戴冠式が執り行われた場所でもある。(参考:ウィキペディア)
これにより名目的には東西フランクが再統一されたことになる。実に数百年ぶりの快挙であったが、今後反対勢力を抑えて、名に実を加えねばならない。
ノストラダムスの予言については、物語風AARなのでちょいと使わせてもらった程度のことなので深い意味はないです。詩の執筆時期についてもつじつまは合っていません。よろしくご了承ください。
フランス王ルイス4世/Louis Ⅳer de Franceは、神聖ローマ皇帝ルイス1世/Louis Ⅰer Empire romain germanique(François Ier Saint-Empire?)となったのだが、このAARでは引き続きルイス4世と呼称します。また、ルイ/Louisと表示されているが、イル・ド・フランスの文化もオックになっていることだし、スペルは同じだからルイス/Louisとするのが自然と考えます。
フランスプレイとなんら変わることがなくなっている感じがしていますが、もう少し頑張ってみようかなぁ・・・。