交易レボルーション 交易革命 ハンザ 宗教改革

皇帝の夢と現実

草原の皇帝

1720

 台の上に虎の敷物が敷いてあり、床机に腰掛けている12,3歳ぐらいの少年は、皇帝と言うよりも、汗王と呼ぶほうがふさわしい。  外交の儀礼ため、恭しく頭は下げるが、三跪九叩頭をする必要はない。左右に居並ぶ群臣から非難めいた声も聞こえるが、声の主をにらみつけるとおとなしく黙った。  やがて、少年の元に親書が運ばれてくる。少年は親書を見ると同時に、親書をこちらに投げつけ、怒りの形相でにらみつけてくる。  予想外の事態に、左右の群臣はざわめく。しばらくして一人の老臣が、親書を拾い上げ中身を確認すると同時に、腰を抜かした。他の群臣も親書を見るが、嘆く者、怒る者、呆然とする者などさまざまであり、鶏小屋に爆竹を投げた後の様に、ただ騒いでいるだけである。  少年は、一喝し群臣を静まらせると、怒りを抑え、オルド全体に響き渡る威厳のある声で問いかけた。 「『北明の汗王に任じる』とは、いかなることか。朕は明の皇帝であるぞ」  やれやれ、自分の立場を理解していないと見える。少しは教育してやろう。  腕を組み、親が子を諭すような口調で話しかける。 「皇帝とは、中原を支配している者が名乗ることのできる尊称ですぞ。草原を支配している集団は、古来より可汗と呼ばれてます。中原の支配者たる我等が、殿下を草原の集団の長であると認めてあげているから・・・・」  ここまで侮辱した成果か、少年のそばにいる従士が、怒りの雄たけびを上げ、剣を抜いてこちらに襲い掛かってきた。  このような蛮行は、想定の範囲内のことであり、所持していた拳銃で従士を撃ち抜く。  突然の銃声に、オルド内の群臣だけでなく、外の馬羊も騒いでいる。  唯一冷静なのは、銃口の先にいる少年だけである。恐れや恐怖で動けない様には見えない。  帝王学のように学ぶことのできる分野ではなく、生まれ持っている資質であろうか。  この少年を放置することは、将来の禍根を残す可能性があるな。

野蛮人なのだから

1579和平

 明国に対して度重なる侮辱を行うが、一向に挑発に乗ってこない。  1570年にハンザが中国に進出して、今年がちょうど150年目になる。  現指導者が引退した後の選挙で勝つためにも、きちっとした名目で戦争を仕掛けたい。  やはり、140年前に失った領土を、女々しく主張して、いまだに中原の覇者と名乗っていることを開戦の名目にしよう。  なにが、明であるか、大汗明国と呼ぶのがふさわしい、所詮は野蛮人の集まりなのだ。

圧倒的な差

戦争

 ハンザの理不尽な宣戦布告に対しても、明の重臣達は強気であった。  150年前のハンザとの戦争では、明国が日本や朝鮮とも同時に戦うなど、外交的に孤立していた。その後50年近い侵攻でもアジア勢の連携はなく、各個撃破されていった。  しかし、今回はかつては敵国であった日本も明側につき、ハンザに宣戦布告したからである。  「明と日本で東西から攻めれば、ハンザは容易に崩壊する」と言う安易な願望にすがりたがっただけともいえる。

日本戦争

 この当時のハンザは、フリントロック式のマスケット銃を採用しており、火縄を使用しないため天候にかかわらず銃撃が可能であった。さらに、見晴らしの良い草原では、地形の起伏以外に自らのみを隠蔽する手段は無く逃げ場がなかった。  逃げる場所も無く、天候を問わず、ハンザの銃撃から追い回されたのだ。さらに友軍の日本は、開戦と同時に壊滅したという噂も伝わってきた。  願望が強いほど、絶望に落ちやすいといえる。  「最初の開戦で死亡した方が幸せだった。」  誰が言ったか不明であるが、逃げ回る明の臣民の気持ちを代弁している。

和平交渉

和平

 ハンザと明の和平は、明が、中原の領有権をすべて放棄することと決まった。  ハンザは、明を格下に扱うため、甘粛にいる少年を江蘇まで呼び出し降伏文書に調印させることにした。

 降伏文書の調印式の場に、少年は現れた。  数ヶ月前に謁見した時よりも、背が若干伸びており、顔立ちから少年のあどけなさが消えたためか、皇帝としての威厳を感じる。  今回の戦争の最大の成果かもしれない。

中国の再建

海戦

 江蘇で屈辱の調印をした少年は、母国に帰る途中、日本海軍の敗退を知った。  ハンザの武官によると、ハンザとアジア勢の技術力の差らしい。  日本や昔の明が使用していたキャラック船は、甲板にしか大砲をつめないのに比べ、ハンザ海軍は三層甲板艦と呼ばれ、1つの船に100門もの大砲を備えていると言うことだった。  また、積んである大砲の性能も、大きく異なり、遠眼鏡と呼ばれる遠くを見ることのできる道具を使い、日本の艦船を見つけると同時に沈めたと言う。

 甘粛に帰ると、中国の近代化を図ろうとした。  しかし、すでに中原から追い出されて、資金もない明では、不可能であった。  なお、明国の歴史書に彼の記録はない。

 ハンザに買収された明国の保守派が彼を殺害し、王位を僭称した親族の者に殺されたらしい。

 この少し後の時代に、ハンザの文化・歴史学に貢献した者が少年の姉弟と言われている。少年の思いは、引き継がれたのであろうか? 交易革命 ハンザではなく同盟的でもなく帝国であった 交易レボルーション


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