水の都の物語

ヴェネツィア共和国のガレー船団がエーゲ海の水平線を覆いつくし、オスマントルコの海軍を仰天させたのは、開戦から一年目の1472年夏のことでした。 有能な提督に率いられたヴェネツィア艦隊は、コルフ、ナクソス、キプロスの諸基地を海上護衛すると同時に、コンスタンチノープル沖に乗り込んでトルコに対して決戦を挑みます。共和国側の挑発に我慢ならなくなったトルコはなけなしの海軍力を出航させ、ヴェネツィアの熟練された海上戦術によって殲滅させられてしまいました。

しかし、いくらヨーロッパ有数の(あるいは随一の)海運国とはいえ、オスマントルコのバルカン半島からアナトリア半島にまたがる広大な領土をすべて封鎖することは、困難でした。 東地中海方面を封鎖するだけでヴェネツィアの艦船と補給線はいっぱいいっぱいになり、黒海方面にまで海戦力をまわす余裕がどうしてもありません。 トルコは同じイスラム教スンニ派のクリミアやキプチャク・ハンと黒海貿易によって必需品を得るなど、このままではヴェネツィアの封鎖作戦は失敗してしまいます。

ヴェネツィアは考えました。

「そうだ、私掠船をつかったらいいんじゃね?」

そうです。 すばらしいところに眼をつけました。万歳。

世の中所詮金です 。戦争も金ですべて決まりますとも。 ええ、そうですとも。 兵(マンパワー)がないなら傭兵を雇えばいいじゃない。 船がないなら海賊を雇えばいいじゃない。

というわけで、ヴェネツィアの十人委員会は黒海の海賊と提携し、彼らに資金を援助して、オスマントルコの黒海側の港を全て封鎖することに成功します。 これでトルコは袋の鼠です。 どこへも逃げることはできません。 ざまーみさらせ。

トルコ人、はじめは意気揚々と徹底抗戦を唱えていましたが、じきに士気が下がってきます。 封鎖から十年がたち、二十年がたち、三十年がたちます。 奢侈品が失われていくにつれ、貴族がちらほら亡命を開始しました。 経済が圧迫され、貿易が寸断され、生活必需品の値段が高騰すると、スラムの民衆がたびたび暴動を起こすようになります。 しかし値段が高くなるだけならまだいい。 品物の絶対数が不足してくると、中産階級が飢えます。 飢えはどんな大砲よりも強力で、渇きはどんな重包囲よりも効果的です。 トルコ人は叫びます。「おいこら、めしくわせえ」。 トルコの支配下にあったギリシャ系住民ほか被支配民族の生活は、トルコ人よりも当然苦しい。 作物がただでさえ不足しているのにもかかわらず、おれたちが飢えてるんだオラ食い物よこせという理由でトルコに貢租をとられるのです。 我慢なりません。 そこで厭戦気分が広まります。 反乱暴動が起こります。

ペロポネソス半島のギリシャ系住民は、ビザンツ陥落時に他のキリスト教国に亡命して生きながらえたパレオロゴス家の傍流を担ぎ上げ、ビザンツ帝国の復興を唱えて反乱独立を達成します。 万歳! ビザンツが復活した! さらにアルバニアもまた、民族の英雄スカンデルベクとともにゲリラ戦を繰り広げ、ハンガリー王国がこれを支援して、トルコのスルタンの血圧をあげてくれます。 バルカン側のトルコ軍は相次ぐ反乱軍との闘いで消耗し、たびたび潰走してしまったので、バルカン半島は反乱軍の天下となってしまいました。 オスマントルコは涙目になって、ヴェネツィアに講和を請うてきました。

「アッラーは偉大なり。アッラーの他に神はなし。それはともかく、和平してください」

ばんざい、ヴェネツィアは勝利したのです(投げやり)。 といっても海軍つかって敵の港を封鎖しながら、あとはふつうに貿易事業をやっていただけなので、あまり感慨はわきません。 エーゲ海の諸島におけるヴェネツィア商人の特権を認めるという条件で、トルコとの和平は成りました。 いやあ、平和っていいもんですね(棒読み)。


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