1508-1580 オスマン二世は初めて皇帝と呼ばれた王である。彼の治世は8年間であり、全臣民は苦しみを知らず過ごした。 アフメト二世は深き井戸のごとき忍耐と智慧をもってカスティーリャを打ち破り、聖地エルサレムをアッラーの御手へ取り戻し、イタリア半島南部を支配下に置いた。 メフメト二世はローマを滅ぼし、アレクサンドリアへ攻め進んだ。まことにアッラーの嘉したもう、三賢帝の時代と呼ばれるべきである。
1508年、オスマン二世が即位した(7-8-3)。この王の業績は少ない。しかしただ一つ銘記されるべきは、かれの時代から「オスマン帝国」の名が正式に使われ始めた、ということである。すなわち、この皇帝の業績は少ない、と記されるべきである。
かれはまたコルフ島を併合した。この島が、次のアフメト二世の大戦争に大いに役立つことになった。
1516年、アフメト二世が即位した(8-3-4)。カスティーリャは第三次十字軍を起こした。アフメト二世は決意した。これを最後の決戦としなければならぬ。つきあっていられない。いまこそカスティーリャを叩くべきだ。だがどうやって?
カスティーリャはコルフ島へ侵攻した。攻略された。海峡を渡り、30000のカスティーリャ軍がジャニナへなだれこむ。迎え撃つ。勝つ。カスティーリャ軍はコルフ島へ撤退する。カスティーリャ軍の補充がコルフ島に送り込まれる。またジャニナに攻めてくる。迎え撃つ。勝つ。これを10年繰り返した。
すると、
カステラ内部崩壊m9(^Д^)プギャー |
1534年、カスティーリャは内部から崩れた。戦争の終盤、カスティーリャは毎週のように白紙和平を懇願した。宮廷の床に額をこすりつけるカスティーリャの和平使節に、アフメト二世は「汝らはイーサーに取り成しを頼むが良い」とだけ返答したという。
カスティーリャの崩壊により、オスマン帝国は東地中海の覇権を確実にした。アフメト二世は聖地奪還を決意した。マムルークはもはや敵ではなかった。1536年、エルサレムが地上におけるアッラーの代理人のもとへ戻った。
われわれ凡俗は予想だにしなかったことであるが、アフメト二世の巧妙な策略はイスパニアを揺り動かしていた。アラゴンがカスティーリャに見切りをつけ、ポルトガルに継承されることを選んだのだ。これにより、イタリア半島南部のアラゴン領もポルトガルの一部となった。しかしポルトガルはこの地域の統治を維持できず、ナポリが反乱独立した。これを見逃すアフメト二世ではなかった。アドリア海を渡り、上陸した。併合した。ローマが見えた。
「あとは、わかっているな。」
智謀の皇帝はそう言い残して死んだ。1548年のことである。
メフメト二世が即位した(7-5-7)。新皇帝が何を欲しているか、世界すべての人間が明瞭に理解していた。1552年、オスマン帝国は西のローマを滅ぼした。
イタリアにイスラームの福音がもたらされた。メフメト二世は粘り強くイタリア半島の改宗を進め、ついに1575年、ローマのイスラム化に成功した。
さて、このころのヨーロッパ情勢を見てみよう。 ボヘミアの伸張が激しい。ロシアも巨大化しているが、周辺諸国に押し込まれ気味である。グレートブリテンとフランスはおとなしい。イタリア北部を押さえているのはヴェネツィアである。
ボヘミアが南下を始めた場合、オスマン帝国にはこれを跳ね返す国力があるとは思われない。サン・ピエトロ大聖堂がモスクに改築されていたこのころ、メフメト二世はしばしば深夜まで地図を睨みつけ、だまりこんでいたという。 防衛に奇策は無い。ただ国力を付けねばならない。皇帝の決意は、おそらくこのようであったと思われる。かれはアレクサンドリアの奪取を命じた。マムルークはほとんど抵抗できなかった。 「ボヘミアに…」。死の床でメフメト二世はつぶやいた。崩御の寸前、遠く「りお・で・じゃねいろ」へ送り込んでいた植民団が、特産品の「タバコ」をイスタンブールの親愛なる陛下のもとへ持ち帰った。しかし皇帝がそれを味わうことはなかった。1580年のことである。