水の都の物語

おれの名前はルター。聖職者さ。

ヴェネツィア共和国がオスマントルコとの半世紀にもわたる戦争に時を費やしていた頃、中世ヨーロッパの政治地図は南ドイツのある一人の牧師によって塗り替えられようとしていました。 牧師の名前を、マルチン・ルターと言います。

ルターは言いました。

「ローマの法王庁のやり方は気に食わない。  あの連中は聖書を片手に友愛を唱え貞節を奨励しているが、  あの連中が実際にやっていることといえば、  賄賂を送ったものを枢機卿に取り立てたり、  美しい娘を嫁に差し出す富豪に便宜をはかったりすることぐらいではないか。  おお、いやだいやだ。私は気に食わないね、そんなやり方は。  聖書を見たまえ、そこに書いてある。  貧しき者は幸いなり、  富裕な者が天国に行くことは、針の穴にらくだを通すことよりも難しい、と。  十戒を思い出してごらん、預言者は言っている。  汝姦淫するなかれ、と。  私が勘弁ならんのは、法王庁は、そうしたことを、自分たちの堕落だけですませず、  免罪符というかたちで――市井の善良なキリスト教徒にまで奨励しようとしている、ということだ。」

ルターの血圧はみるみる上がっていきます。

「私は気に食わないね。  気にいらんよ。  拒否しますよ、法王庁のやり方は。  法王庁の考え方は。  否定しますよ。  法王庁の権威なんて。  あんなもの、何がキリスト教徒の最高権威ですか。  許しがたいですよ。  たまりませんね。  勘弁なりません。  抗議します、ええ、そうですとも、抗議しますよ私は。  私は断固として、法王庁に、プロテスタントします!」

これだけではなんだかルターが世の中を拗ねた単なる不平家さんに見えてしまいますが、彼は一つ重大なことをやってくれました。 キリスト教世界で唯一無二であった聖界の最高権威を否定する、ということです。 そして彼は、聖書原理主義に基づく、もう一つの権威を打ちたてようとしたのです。 カトリックの教会秩序を否定したところにプロテスタントが打ち立てた権威は、中央ヨーロッパの中産階級の熱烈な支持を受けました。 中世の中産階級は、労働し、生産し、交易し、教育し、自分たちが社会の経済を担っているのに、報われないという不満をもっていました。 ルターの勢力は、彼らの不満を希望に変え、みるみるうちに増大していきます。

黄色と青色の闘争

当時ルターのいた南ドイツは、神聖ローマ帝国の諸侯国が割拠している不安定な政治状態にありました。 神聖ローマ帝国の皇帝位は十五世紀以来、オーストリアのハプスブルク家と(フランスに大勢力をもっていた)ブルゴーニュのカペー家というライバル関係にある両家によって交互に継承されていましたが、十五世紀末、ブルゴーニュが南ドイツ諸侯を相手に矢継ぎ早の婚姻政策を展開し、多くのドイツ諸侯を外交併合、もしくは同君連合を結ぶに至って、神聖帝国の皇帝は事実上ブルゴーニュ家の世襲状態になっていました。 他方、これに反発したのがライバルのオーストリアです。 オーストリアはローマ法王庁に賄賂を送って枢機卿を自派で固め、教会権力によってブルゴーニュを追い落とそうとしましたが、ブルゴーニュは法王庁に金ではなく娘をおくり、これを篭絡させ、自分たちの一族からローマ教皇を輩出させるという作戦にでました。 法王庁をめぐるこうしたブルゴーニュとオーストリアの権力闘争も、結局ブルゴーニュの勝利に終わり、オーストリアは世俗権力も教会権力も失い、きわめてピンチな状態に追い込まれてしまいます。

ところでこの頃ルターは、その過激な反教皇の態度からブルゴーニュ派のドイツ諸侯に睨まれ、軟禁や追放の処置を繰り返され、ドイツ領内をてんてんと放浪することを余儀なくされます。 すっかりやつれて見る影もないルターでしたが、彼はこんなことで屈服するやわな精神の持ち主ではありませんでした。 ルターの舌鋒はますます鋭く、いよいよ冴えて、法王庁の堕落と専横を糾弾するのでした。 そんなルターを支持する中産階級は少なくなく、彼の勢力は南ドイツでかなりのものとなります。 そしてそんな宗教的アンチヒーローと、いまや没落の淵にいるオーストリアハプスブルク家の利害が、反教皇という点で一致するのは当然でした。

1499年、ルターはオーストリアの首都ウィーンに迎え入れられます。 そこで彼は、はじめて市井の人間ではなく、権力を持った王侯貴族の支持者を得ることになるのです。


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