マルコ・アントニオの業績は、彼の死後も、ヴェネツィアに引き継がれました。 本土(テッラ・フェルマ)の荘園制を中心とした経済構造、十人委員会や査問委員会などの効率的で分散化した権力機構、外交・交易・行政と専門別に組織化された官僚集団、こうしたヴェネツィアの統治手法は、いずれもヨーロッパの他の共和国の模範となるものでした。 そして第八次十字軍による復古ビザンツ帝国の解体以降、東地中海において独占的権益を握ったヴェネツィアは、もはや重商主義による保護貿易をとることよりも、自由貿易に転換し、東だけでない地中海全体の経済を牛耳る路線に転換するのでした。 そのためには、つよい経済的体力が必要でした。 ヴェネツィアは北イタリアとアドリア海沿岸、エーゲ海諸島だけではなく、バルカン半島南部にも広大な属領をもつ大陸国家に代わりつつありました。いまヴェネツィア経済にとって枢要な位置を占めているのは、貿易経済ではなく、生産経済だったのです。 そこで1556年、ヴェネツィアは重商共和制から管理共和制へと政体を変化させました。 もちろんこのことは、当時の情勢からいって自然なことでしたし、合理的なことでもありました。とはいえ、歴史上、合理的な選択が、未来において、最良の結果を生むとは限らないのです。 なるほど、貿易主体の政体であれば、ヴェネツィア社会の階級的主役は商人階級です。彼らは船団をもち(あるいはそれを賃貸し)、水夫を組織し、ヴェネツィア各地の属領や他国の交易中心地に居住地と市場をもっています。船団を駆って東地中海を航行し、貿易によって利益をあげ、ヴェネツィア経済を発展させ、貿易関税によって祖国の財政を潤します。ヴェネツィアの伝統的な政治的人材の供給源は、他の諸国と同じようにやはり貴族でしたが、ヴェネツィアはこうした商人階級が社会経済の屋台骨になっていたため、貴族階級への権力集中が妨げられ、十人委員会や国民議会などのかたちでデモクラットな体制が保障されていたのです。 ところが、管理共和制の移行によって、ヴェネツィア社会の階級的主役は土地と農奴を所有する貴族階級へと変化しました。貴族はいまや政治権力だけでなく、経済的な基盤をも一手に集中させました。はじめ、ヴェネツィアの属領の荘園経営は、小規模経営の乱立といった様相を呈していました。ヴェネツィアが重商共和制のもとで交易国家としてやっていけるかぎりは、それでもよかったのです。しかしいまや、管理共和制となったヴェネツィアは、生産によって東地中海の広大な経済圏を支えなければならなくなりました。そのためには有限な土地の可能な限りの有効活用が求められます。それは荘園再編による農奴の再配置であり、行政機構の確立であり、中央集権と階級社会の固定化でした。こうした社会変化のよしわるしはここでは置いておきましょう。重要なことは、十六世紀中ごろ、管理共和制に移行したヴェネツィアは、必然的に、自分たちを指導する総督(ドゥーチェ)に求める人物像として、中央集権化という政治的課題をこなすことのできる立派な能力と強烈な人格をもった、ストロング・マンを求めたということでした。 そして1584年、そういった人物がドゥーチェに就任します。名前を、マリオ・ルッツィーニと言います。彼がドゥーチェとなったとき、年代記の作者は、彼について、次のように記しました。 「マリオ・ルッツィーニの観察力と優れた行政手腕は、行政改革を実行し、最大限に税を集める上で、大きな助けになるでしょう。」 そしてこのマリオ・ルッツィーニこそが、ヴェネツィア史の転轍機を握っていたのです。