マラッカによる大航海時代と、自然伝播による世界地図の発見によって、旧大陸の全貌が明らかになった。
インドではヴィヤジャナガルが南部を統一した。 二つのCOT(赤枠)のうち、マラッカは東のビハールを領有し、西のカッチとは婚姻のうえ同盟をむすんだ。
イエズス会の宣教師がマラッカを訪ね、坤與全覧図という世界地図を謙譲した。 これによってヨーロッパ世界が明らかになった。
チュートン騎士団がすごいことになっていた。(のちプロイセンになる。)
キャラック船11隻からなるマラッカ海軍は、マラッカを東インドと東南アジアの覇者にした。
アユタヤと戦ってマレー半島は統一した。 スマトラ島のアチェとは同君連合をむすんだ。 ジャワ島のマジャパヒト王国は、砲艦外交で属国にした。 セラバヤのマカッサルも同様である。
しかし、カリマンタン島のブルネイだけは、南洋諸島で唯一マラッカに屈せず、独立を保ち続けていた。
いやそればかりではない。 彼らは、(アチェとの同君連合を守るため)つねに戦争状態にあったマラッカがひとたび窮地に陥ると、婚姻状態をつかって玉座を請求し、宣戦布告さえしてきたのだ。
もちろん精強なマラッカ海軍はブルネイを返り討ちにして、カリマンタン島のほぼ全土を割譲させた。 ブルネイは首都のみの小国に転落した。
1522年、今度はマラッカが、ブルネイに対して玉座継承権を請求。 翌年にかけての戦争で、マラッカはカリマンタン島征服を完遂した。
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自国と属国によるマラッカの勢力範囲 |
しかしインノミネはここからが大変である。 征服した非中核州からはミニマムレヴォルトリスクが発生し、一定の割合で反乱がおこる。 カリマンタン島でもそれは例外ではなく、王位僭称者による反乱が頻発。
農民軍や狂信者の反乱と違って、僭称者は自分の占領地域で兵力を補給する。 つまり、僭称者に勝つためには野戦で勝たなければならないのだが、でてきた反乱軍のリーダーが射撃5白兵戦6とかいうバケモノだったため、まったく勝てない。
マラッカに出来たのは、僭称者が占領した地域をあとから解放していく作業のみで、ブルネイが独立しないようにするのが精一杯だった。
この反乱は十六世紀後半まで続いた後、(おそらく五十年で)自然消滅した。 脳内補完的には、反乱軍のバケモノリーダーが自然死したため、カリマンタン島の内戦は終結した、というかんじであろう。
ブルネイ王国の末裔アブドゥヌ・アルジャリ・シャー・イブヌによる反乱は、カリマンタン島全土を席巻した。写真はあわや再独立直前のカリマンタン島。
しかし、このカリマンタン島の反乱は、思わぬかたちでマラッカ王国の命運を決めた。
カリマンタン島での激戦によって、戦争疲弊が限界を超えてしまったのである。
同時期に(征服すれば中核州化のボーナスがでるミッションがあったために)同君連合を解消してきたアチェに対する征服事業も行なわれたため、この戦争疲弊は容易には下がらなかった。
王国全土に農民反乱がまきおこった。
この農民反乱を鎮圧するために、軍を徴兵し戦闘するため、さらに戦争疲弊が上昇した。 この悪循環をとめるすべを王国はもっていなかった。
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スマトラ島の農民反乱 |
1579年、マラッカは同君連合を解消してきたアチェを征服したが、彼の本土では農民反乱が渦巻いていた。
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おお、マラッカ王国よ死んでしまうとは情けない |
そしてその年の9月1日、我が国は崩壊した。
あまりに広い領土は維持ができないと判断。 技術コストを下げるためにも、マラッカはマレー半島のパッターニとカリマンタンのブルネイを属国として建国した。 パッターニ王国は半島部のタイ系国家との緩衝地帯になってくれるだろう。おそらくスルタンはマラッカ王の従兄弟かなんか。 ブルネイ王国は、占領から半世紀が経過し、中核州化してからのリリース。スルタンは旧ブルネイ王国の末裔かもしれないが、婚姻政策をしていたのでやはりマラッカ王の従兄弟かなんか。
メガット・イスカンデル二世は聡明なマラッカ王だった。
彼のすぐれた行政能力は王国を近代化するために最適であり、彼は中央集権化と革新制度にもとづく行政改革を推し進め、来航したポルトガル人のためにバレンパンを開港(割譲)して、西欧化への舵をとった。
メガット・イスカンデル二世は西欧化の過程で「議会解散法」、「専売条例」、「司法制度法」などを次々と布告する。 このあたり、近代化しているということが追体験できてなかなかいいですよね。
技術グループがイスラム化した時点で西方のマムルーク朝から同盟要請が来る。了承。 マムルーク朝はメッカを所有するイスラム界の覇者で、彼国との同盟により、マラッカ王国は鄭和との約束(脳内)を果たしたのだなあ、と実感。
この頃、海軍技術が9に達して港の封鎖が可能になる。続いて「大海の覇者」(海軍戦力値二倍)の国策をとって、キャラック船とカラベル船による大型艦40隻のマラッカ海軍をつくる。 十六世紀まで東アジアの海を制覇していた倭寇を討伐するため、日本に宣戦を布告。
日本全土を封鎖することにより、毎月数ダカットの収入が得られる。 また日本は金山を所有しているため、賠償金が東南アジア諸国の50ダカットとか75ダカットとかいうしけた数字ではなく、300ダカットとかを記録する。うまうま。
日本を下した後は、調子にのって明にも宣戦を布告。 しかしこれは勇み足だったらしく、この時期の明は封鎖率100%に達しても微動だにしない。 しかも明と戦争状態になることで「これはいけるかも」と勘違いして夢をみちゃったペグーやらアユタヤやらマジャパヒトやらの属国が相次いで宣戦布告してきたのでサア大変だ。 急いで明と白紙講和して、属国たちに懲罰の海軍を派遣する。属国&賠償金の講和を飲ませて、いったん乱れた東南アジアの秩序を再建した。 何が言いたいかというと、明に手をだすのはヤヴァイ、ということです。
日本からの賠償金や属国からの朝貢で、経済は空前の繁栄をとげる。 この時期のマラッカの交易総収入は500ダカット*1を超え、首都には大学が建設された。
首都に大学を建設すると、ナショナルミッションがいくつか解禁される。 マラッカは「イスラムの学問の拠点」となり、王は「学校設立法」を可決した。
この大学からは次の世代のマラッカを担う有能な人材たちが多数輩出されるであろう。
1629年、マラッカは専制君主制から貴族共和制、重商共和制を経て、管理共和制に移行した。マラッカ王国はマラッカ共和国となったのである。
脳内補完すると、マラッカの君主が近代化の波に押されて貴族共和制に制度改革をしたが、近代化の波は止められず、王族は退位させられて有力貴族によって管理共和制がしかれた、というところであろう。