新帝は即位直後、疲弊が回復したのを確認すると統一イタリア王国へと軍を進める。ジェノア、ポーランド、メックレンブルグも参戦したが、ポーランドは1州のみの国家であり、いずれも小国でペルシアから見れば取るに足りない。 だがイタリア軍は王Alberto II世率いる4万の大軍を率いていたナポリ会戦で2個軍団を撃破。こちらも4個軍団を集結させてAbruzziで決戦を挑むも、大損害を受けて撤退させられる。
しかし、この時に追撃すればペルシア軍を全滅できただろうに、イタリア主力軍はなぜか北へと撤退していったので、ギリシア軍、ビザンチン軍とともに南よりじわじわと占領していった。
メックレンブルグ、ポーランド、ジェノアは戦わずして降伏。ペルシアの属国となる。 ローマはLV4要塞となっていたので、地道に包囲戦が行われ、それ以外の軍団は北上してイタリア軍に決戦を強いることにした。
そしてモデナで決戦を行うも、7万のペルシア軍は半数が殺され、4万のイタリア軍は1万の被害。 そこで南へ戻って包囲中のローマへ集結し、突撃で陥落させる。イタリア王との講和では、中部イタリアまでペルシアは獲得する。
1777年、今度はHosaynはシチリアへ5個軍団で攻めていった。ヴェネツィアが独立保証をしていたので参戦。盟主となる。他はサヴォイとデンマーク。 今度は前回ほど苦戦せずに圧勝した。シチリアを落とし、属国にする。 地中海艦隊は輸送艦30隻を保有するようになっており、3個軍団を同時にサヴォイへ運ぶ。上陸した時には、すでに属国のジェノア軍によって海岸部は占領されていた。一緒に北上してサヴォイ全土を征服して属国にする。 ジェノアがヴェネツィア軍1万に包囲されていたので、サヴォイの3個軍団で攻撃するが大敗して逃げ帰る。 そこで別部隊でヴェネツィア本土を占領して1778年4月、降伏させた。
このように、ペルシアの基本戦略はドイツやイタリア半島北部の勢力は属国として従属させ、イタリア中部・南部は帝国直轄領とするというものであった。フランス、オーストリアとの国境を接するのを避けるという理由もある。
1779年、今度はボスニア王国を攻撃する。アクィレイアとウクライナも参戦。 アクィレイアには3個軍団で上陸して全土占領。属国とした。 ボスニアはセルビアなど3州を取って首都のみにする。 ウクライナはグルジア、ギリシア軍が西側を、4個軍団が東側を落としていき、3州割譲で終わった。
1781年、ボスニアがアカエア王国を攻撃したのをきっかけに、ボスニア=イタリア戦争が勃発。イタリア軍がボスニアへ遠征している隙に、Hosaynは再びイタリアへ宣戦布告した。今回はデンマークのみが同盟。 即座にイタリアは賠償金をボヘミア王へ払って講和したのは見事であったが、イタリア軍が帰ってくる前にペルシア軍は突撃で次々とイタリア諸都市を落としていく。
デンマークはなかなか講和しなかったが、しばらく待ってから、チュートン騎士団とゴッドランド島の独立を条件に帝国と講和した。 残るイタリアに対しては市場のあるシエナと、フェラーラ、ロマーニャを割譲させて終戦となった。
1784年、ペルシアはシャー独裁を緩和し、内閣制度を導入する。これによって諸国への悪評を速やかに回復していった。 また、キヴァがカザクと戦争をしたのでペルシアは義理参戦。カザクは3州を手放して講和した。キヴァが強大化しつつある。 1788年にはカシミール継承権戦争でまたキヴァから参戦要請があったので義理参戦。
その間、Tax Assesorが建造可能となったので帝国各地で建設されていった。 1790年には小アジアのドゥルカディル君候国が帝国に併合。イスラム国家で残っている国は少なくなってきた。
1791年、再びHosaynはイタリアを攻撃。今回はバイエルンも参戦してきた。 イタリア軍に会戦では敗北しながらも大軍によって突撃。またカナリア諸島も友軍が落としたので、首都ローマ以外の全て割譲させる。もっともイタリアはまだ新大陸やインド洋に植民地を保有していたので、併合はまだ先の事であった。 あとはバイエルンのみだが、既にヴェネツィア、アクィレイアを落とされ、3万の主力軍にペルシア6万の軍は敗北する。 その直後、ミラノがペルシアに宣戦布告した。同盟国のボヘミアも参戦し、東欧全土が戦乱に突入した。 そのためバイエルンとは賠償金100Dで終わらせ、まだ元気な6個軍団でミラノへ侵攻する。 ボヘミアに対しては、バルカン半島を取るに任せ、主力軍と接敵しないようにしながらギリシア方面、黒海北岸方面を攻略していく。
今回の戦争はミラノが盟主となったので、ボヘミア軍との衝突は避けつつもミラノ全土を占領。すると、講和でボヘミア領も取れるし、100%以下ならば断られる事もない! そのため、ボヘミア領のAlbaniaとZaporozhia、Koubanを得て、ミラノのParmaも獲得して戦争を終結した。ボヘミア単独相手ならば、まず受け入れられる事のない条件である。
1796年、東欧ではノブゴロドとボヘミアの戦争で大戦乱となっていた中、イタリアへとどめを刺すべく停戦期間が切れた直後に宣戦布告。バイエルンとザルツブルグも参戦してくる。バイエルンが盟主。 ローマを即座に突撃で落とすが、しかし併合は出来ない。新大陸に植民地を持っている為である。そこで教皇庁を復活させる条件と属国化で停戦する。 イタリア王が条件を受け入れるという使者を聞いていながら、Hosaynは崩御した。
ドイツ戦役は続いている。10個軍団で占領し続け、ザルツブルグは属国化。バイエルンはスイス、ウィッテンベルグ、バーデンの独立を条件に講和した。悪評が高くなるのを嫌い、ドイツへの領土獲得はしなかった。ペルシアはフランスと国境を接するのを好まないという理由もあった。
戦後にすぐに教皇庁はペルシアとの同盟を破棄した。まるで破滅したいかのようだが、カトリックの宗主としての矜恃もあるのだろう。 そこで即座に宣戦布告する。まだ欧州のどの国とも同盟、独立保証を受けていないうちに。
ローマは再びペルシア軍によって占領された。だが併合できない。新大陸への遠征は、Joneidは乗り気では無かった。その為、ローマは属国化させた。宗教が違うので外交併合もできない。ペルシアとカトリック教会の不安定な関係が続く事になった。
1798年、即位直後のAbbasはイタリア半島で残っている国の一つであるピサを攻撃した。それによってサルデーリャ島とロレーヌ(といっても北米の国家になっている)と交戦する。ピサは即座に突撃で落として併合。サルディーリャ島も陥落した。 しかし新大陸のロレーヌには手を出せないので、向こうから白紙講和が来るまで待ってから応諾。そして最後にサルデーニャを属国化させてピサ戦役は終了した。
1803年、「やはり異教の主が居座るローマはイスラム化されなければならぬ! あらゆる犠牲を払って」とAbbasは決意し、属国を解除し、ローマを攻撃した。 今度は、新大陸のトリニダット島植民地も攻撃する為、2個軍団を乗せたペルシア艦隊は初めて大西洋を渡っていった。
さらにペルシア湾艦隊はインド洋の教皇領モーリシャス諸島に1個軍団を送って占領。 勿論、8個軍団によるローマ総攻撃によって占領も忘れない。 この二つの島を取って、ローマを首都のみにして戦争は終結した。
1808年、停戦が切れたら、ペルシア軍はローマへ向けて進軍した。 8個軍団による突撃には、LV4要塞と化したヴァチカン宮殿もひとたまりもない。捕らえられた教皇Clemens VII世はシャーの命令により処刑され、ローマ教皇庁は解体された。
(もっとも後にジェノアでこっそり復活する……教皇庁は死なず)
1814年、ペルシアはSmithian Economicsを採用し、産業革命の準備に入った。
1816年、小アジア最後の君候国カンディルがペルシアへ併合された。これによって、小アジアはすべてペルシアの直接統治時代に入ることとなる。 またローマのイスラム化が完了した。サンピエトロ教会はモスクに改築された。
イタリア半島はこうしてペルシア領となった。 そして以後、ペルシア兵はドナウ川流域でボヘミア軍と対峙する日々が続くだろう。 19世紀に入り、世界はイギリス、フランス、スペイン、ボヘミア、ペルシア、デリーの6強国が支配するようになったのだった。 そしてペルシア帝国の落日は、まだ遙か先のように思われた。
End.
部族国家でも、地道に広げていけば、やれるもんですねぇ。 しかし、黒羊朝はペルシア変成イベントがあるからまだマシだが、北米の部族国家なんて、マゾの極みになりそうだw あとは、デリーが予想外に拡大したのは誤算だった(ラッキーネイションだったのだろうか)。当初はアラビアよりもインドを征服するつもりだったけど。西はオスマンに任せて東の覇王目指すAARを予定していたが、まあ予想通りにいかないのがパラドゲーという事で。
ボヘミア討伐は面倒くさいのでパスしました――実はイタリア征伐前にセーブして5回くらい挑戦してみたが、ことごとくボヘミア軍に全滅させられたのは内緒w