ペルシア建国記

Ismail II世の御代(統治6/軍事4/外交4 1715年-1744年)

 新帝Ismail II世は、占領したウクライナに対して属国化を望んでいたが、戦勝点が100を超えるので不可能であり、Podolia,Chersonの2州と250Dの賠償金を要求して前帝から続いた戦争を終わらせた。  もっとも黒海北岸の離れ地を維持する価値も無く、またボヘミアと国境を接してしまうので、この2州は正教国のグルジアへと譲渡された(黒海西部の離れ地を持つのを嫌ったグルジア公に20回は断られるが)。  黒海北岸ギリシアはアフリカの角の植民地の割譲と賠償金と属国化させて終了した。

 その後、帝国は国内の整備を続けていった。  1718年、ペルシア帝国は官僚制(Bureaucracy)を導入し、税収アップを図った。  またMarket Placeの建設が可能となったので、豊かな州から続々と建てていった。  1721年、首都イスファハーンに総合大学が初めて建設される。学問と文化の華が咲く事となった。

 そしてモスクワが再びノブゴロド、ビザンチン、ウクライナに攻められて崩壊している隙をついて、ペルシアはアルジェリアに再び戦争を行う。キヴァが同盟国だったので、裏切らないかとIsmailは心配したが、無事にキヴァはペルシア側についた。  あとノガイとも交戦に入る。南からキヴァ軍、東からシビル軍、西からペルシア軍の3個軍団で攻められて、速やかに戦線は崩壊した。UfaとBershの2州と賠償金500Dで落とす。東の離れ地のUfaはシビル汗に無償割譲された。  アルジェリア戦線では、属国チュニジアへ艦隊で輸送しておいた2個軍団が西のアルジェ本国へと向かい、エジプトからは5個軍団で東部側の地方を攻め続ける。  西部ではアルジェリア王が率いる2万の軍に苦戦し、騎兵軍団は壊滅する。だが東部を占領した3個軍団が到着してから反撃していく。  しかし戦争疲弊が5%になったので、Ismailはそろそろ講和しようとするが、チュニジアから東部全ての州を得るには、戦勝点が足りない。  そのため、戦争疲弊を気にしながら、ペルシア軍は慎重に攻めていく。疲弊が6%を突破し、シャーが気を揉む中、戦勝点が48になったら即交渉が行なわれ、アルジェ王は東部の州全てを手放す事に同意した。 「もう、ペルシアはチュニジアより西へ進む事はないだろう」とIsmailは家臣らに告げた。

 1726年、イスファハーン大学が完成とともに、Pass School Establishment Actが発令された。また、イスラム神学も研究すべくIslamic Centre of Scholarlyも同時に発令された。

 1735年、Ismailはペルシア長年の敵、ビザンチンに対して総攻撃する事にした。だが一つ問題があった。ビザンチン海軍はガレー33隻を含む大軍であり、もしボスポラス海峡を封鎖されたらペルシアには手も足も出せない。  そこで軍師の一人による秘策が行われた――。

 ビザンチン皇帝Demetrious III世は、各地から伝えられる不穏な報告に眉を顰めた。ペルシアからの軍通行許可を受け入れたが、彼らは「通行」するだけではとどまらなかった。帝国全土にペルシア軍は陣取っていった。  さらにアフリカやペルシア本土の軍団までが移動してくる……ほぼペルシア全軍がビザンチン領に存在する事になる。どう見ても、それはビザンチン帝国に対する攻撃を意図していた。

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怪しすぎる……

 その直後、皇帝は同盟国の一つラグーサがペルシアによって宣戦布告されたのを知る……。 「おのれ、ペルシアの狗どもめ。そこまで卑劣になれるか!」皇帝は叫んだ。  一瞬でビザンチン全土で包囲戦が開始された。  スペインとパラグアイも参戦する。スペインが盟主となった。

 しかしペルシアのせこい奇襲攻撃は失敗した。コンスタンチノープルの戦いでは4個軍団が壊滅する。

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 また、ビザンチン領内はLV2要塞がほとんどなので突撃した軍団の歩兵のほとんどが戦死した。

 以後、もはや技術力の上がった西洋人の要塞に対して突撃は不可、と気づかされたペルシア人は気長に包囲戦を続ける事になった。自由になったビザンチン主力軍がバルカン半島を機動防御し、捕捉されたいくつものペルシア軍団が全滅するが、他の場所での包囲はちゃくちゃくと進む。また、オスマン軍など小アジアの諸侯軍も到着し、包囲に活躍した。  そしてマケドニアやブルガリアなどの領土を取ったり取り返されたりしながら、ペルシア軍はじわじわと北西へとビザンチン主力軍を追い詰めていった。

 途中、キヴァが継承権戦争への参戦を要請してくるが、モンゴルやデリーと戦う余裕は無いのでIsmailは断った。こうして長きキヴァとの同盟関係は決裂した。

 1737年、あらかたのビザンチン領を占領するとIsmailはビザンチン皇帝と外交交渉に入った。こちらの疲弊は3.5%。ビザンチンは20%を超えている。戦勝点は53点だが、スペインと戦う余裕も無いので、ここで手を打つ。  シリアのAllepo、そしてコンスタンチノープルの西のEdirneとBurgas。あとキプロス島の独立。シャーの要求にビザンチン皇帝は断る気力はすでに無かった。  次にボスニアから軍通行許可を貰い、2個軍団でラグーザを攻撃し、500Dの賠償金を取る。  パラグアイは、わざわざ1000の歩兵を大西洋を渡って小アジアへ送ってきたが、待ち受けていた騎兵軍団に全滅させられた。900Dの賠償金をペルシアに払った。  残るスペインに対しては、賠償金250Dで終戦となった。

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 その後、ビザンチン皇帝はコンスタンチノープルから逃げだし、コルフ島へ遷都した。どうみても逃げの姿勢である。

 1739年、戦争疲弊が回復するのを待ってから、Ismailはビザンチンの同盟国のロードス騎士団へ宣戦布告した。彼らはビザンチンとのみ同盟を結んでいたので、開戦相手として好都合であった。  コンスタンチノープルは3万のペルシア軍の突撃によって陥落。  ブルガリアでビザンチン主力1万を騎兵軍団などで撃滅した。  あとは、前回の戦いの失敗を踏まえ、突撃をせずに気長に包囲をしながら全土占領した。

 ロードス騎士団は賠償金を払わせるだけで属国化はあえて止めておかれた。次の開戦相手に使われるのは明らかであった。

 1741年、ペルシア・ビザンチン間に第二次停戦協定が結ばれ、Thrace(コンスタンチノープル),Nis,Bulgariaをペルシア側に割譲させて戦争は終結した。

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コンスタンチノープルの陥落

 これによって「世界の首都」コンスタンチノープルは、ペルシア領となった。都は名をイスタンブールと改名され、さっそく聖ソフィア教会はモスクに改築されていった。

 1743年、今度は小アジアの君候国で唯一同盟関係にないカラマン君候国をIsmailは征伐に向かう。  しかし保護国であるアルジェリアとモンゴルとも交戦となる。アルジェリアが敵盟主となった。  アルジェリアへは、チュニジアより3個軍団を西へ向かわせた。  カラマンとモンゴルは、それぞれ2個軍団ですぐに首都を包囲。突撃で落とす。カラマンは帝国に併合された。これで小アジアのペルシア領の東西の領土が繋がった。  モンゴルは首都サライを落とした後、サライを割譲させた。モンゴル人は東の飛び地へと移動していき、2州のシベリア小部族へと転落した。  だがアルジェリア軍は手強く、1個軍団が全滅してしまう。  そのため、賠償金350Dで手を打って戦争は終わった。

 1744年、Ismail II世は病身の中、最後の遺言を皇太子らに発した。 「もはや、帝国は以後、ムスリム同士の戦争を禁じる。ビザンチン残党、そして我らが宿敵、ボヘミアに対するジハードを行うのだ」  そう言い残すと崩御する。Ismail II世の時代、ペルシア帝国はバルカン半島にまで領土を拡張し、欧州世界への反撃を開始する事となった。


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