ペルシア建国記

Mohammad Ali I世の御代(統治4/軍事8/外交7 1650年-1679年)

 軍事、外交に才のあるMohammad Ali帝は、イスラム世界をペルシアの旗のもと、ほぼ統一し、エジプト方面へ勢力を伸ばした事で知られている。

 5月、クリミア継承権戦争でシリアとアルジェリアが交戦し、アルジェ側にはオスマン帝国とクリミア、ナジドが参戦した。  ここでシリアから参戦要請が来たのでMohammad Ali帝は義理参戦した。ナジドを落とした後、両軍は白紙講和した。

 1653年、Mohammad Ali帝はエチオピアのアダルを攻撃した。イスラム諸国間で同盟が複雑に結ばれている中、それほど大戦にならずに落とせる国がここくらいしかないからである。ここで同盟国のマムルーク、モンゴルと戦争となった。  今度の戦争では主にマムルークを落とすのが目的であった。マムルークは現在アルジェリアと激しく戦闘中であり、帝国の進入を防ぐ戦力は残されていない。  モンゴルには3個軍団で北上させ、エジプトには2個軍団で侵攻。アダルには1個軍団で落とし、その後にナイル川を北上してエジプトへ向かわせる。

 モンゴル軍は意外とあっけなく倒せたので、3個軍団でがしがし落としながら、市場のあるAstrakhanを含む3州割譲で講和した。モンゴルは既に落日といえよう。もっとも、あまり叩きすぎると、今勢力を伸ばしつつあるモスクワ大公国との壁が無くなるので、シャーはあまり進出には乗り気ではなかったと言われている。

 しかしマムルーク方面は意外としぶとく、ペルシア軍は攻略に時間がかかった。オスマンが首都など複数の州を落とした後、賠償金で単独講和する(その結果、もう一度攻略をし直さないといけない)など、手間取ってしまった。  その間に、アルジェリアが市場のあるアレキサンドリアを奪取してしまった。  戦力不足を感じた帝によって、新たに一個軍団が動員された。帝国は広大になりすぎて、戦力が足りない。  1654年10月、ようやくエジプト全土を征服して、マムルークに属国化を承認させる。ペルシアのエジプト戦役はこうして終わった。

 1656年、再びイラクとナジドを攻めるべく、今度はMohammad Ali帝は小アジアのアイディン君候国へ宣戦布告する。  独立保護していたオスマン帝国、ナジド、イラク、シリアとも開戦。イスラム世界全土を巻き込む大戦となった。  ペルシア側についたのはグルジア、キヴァ、ナポリ、マムルーク、カンディル。  敵側はシリアが総大将となった。

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イスラム世界大戦争

 イラク、ナジド、シリアを中心に攻めていく。  しかしシリア軍の名将Al-Mu'azzam IV世によって、何度もペルシア軍は苦汁をなめさせられる。だが、その周辺で多数のペルシア軍団がシリア領を攻略していった。  また小アジアのオスマン領にはグルジア軍とともに1個軍団が侵攻。  オスマン軍はエジプトでマムルーク領の大半を征服していたが、本国が攻められると講和に同意し、東端の2州を譲渡させる。彼らはスペイン、ポルトガルとも戦争中だったので、講和を急いだと見える。  次にイラクの2州全土を征服したので、首都のみに削る。これでアラビア領とペルシア本土が陸路で接続された。  1657年4月にはナジドも属領2州を陥落したので首都のみに削って200Dの賠償金とともに講和。  アイディン君候国は戦うこともなく降伏。属領となった。

 こうして残る敵をシリアのみになると、ペルシア軍は総攻撃を開始する。シリア軍も1個軍団を全滅させるなど健闘するが、多勢に無勢。ペルシア軍の数の暴力の前についに敗北してしまう。  そしてペルシア軍が全土を占領して、シリアは首都以外のすべて割譲させられた。

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 その中には、預言者が昇天した街エルサレムも含まれている。

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 こうしてペルシアはアラビア半島、イラク、シリアに広大な領土を持つ事となった。

 BBRが21.59/32.00になったので、Mohammad Ali帝はしばらく戦争は控えることなる。  また広大な新領土は各地に分散しており、ペルシア各軍団は広く配置し、反乱に個別に対処することとなる。

 政府技術がLV11になったので、ペルシア軍はEngineer Corpsが導入された。これによってペルシア軍の要塞攻略技術が向上した。

 その頃、モスクワ大公国はボヘミアと黒海で何年も死闘を続けていた。  そしてモンゴル、ノブゴロド=ビザンチン連合、ノガイ=キヴァ連合と次々と宣戦布告され、国土は蹂躙されていった。ボヘミア、ノブゴロドとは白紙講和をして、他とは少しずつ領土を切り売りして、破滅は免れたようだ。  デリー帝国の東征は台湾近海にまで達し、そしてついに日本に宣戦布告するまでになった。いずれ日本もデリー化するのではないか、というのがイスラム世界でのもっぱらの噂である。

 また、この時期、アメリカ合衆国がフランスから独立した。もっともマンハッタンを首都に3州国家であるが。

 1662年、オスマン帝国はスペインに首都を占領され、ドゥルカドゥル君候国の独立を承認させられる。オスマンは再び小アジア西部の小国へと転落した。

 1664年、軍団を増強して8万の総勢となったペルシア軍は、再び進撃をする。  Mohammad Ali帝はアルジェリアに宣戦布告し、オスマン帝国、ナジド、クリミアと交戦する。アルジェリアはスペイン、ポルトガルと戦争中であり、すでに疲弊しきっている。  今回の目的はアルジェリアからエジプト地方を奪還する事とオスマンを属国化させる事をMohammad Aliは考えていた。  ペルシアのイスラム世界での急速な拡大の結果、悪評が高くなりすぎているので、少し領土を貰うくらいで止めておく事も。

 まずはナジドから120Dの賠償金とバーレーン島を得て首都のみの国に転落させる。  オスマン軍は5000の兵にまで減少しており、領内で反乱が多発していたので、らくらく落としていく。  クリミアはグルジア軍が半分落としたので、75Dの賠償金と属国化させて降伏。  オスマンは全土を占領するが、属国化には120戦勝点必要だったので、カラマン君候国の独立で手を打つ。  カラマンが多くの領土を取ったので、オスマンに残されたのは小アジア西端の2州のみになってしまった。

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 アルジェリアにはペルシア軍は3個軍団で西へ西へと攻めていく。ナポリ軍が独自に上陸して攻略を続けていた。  アルジェリアの疲弊度は20%を超えている為、反乱が北アフリカ全土で行われていた。首都Al-Djazairも反乱軍の支配下であった。  アルジェリア領の真ん中にはチュニジアがあるが、ここは既にペルシアの属国だったので領内を通過する。アルジェリア攻略にとって重要な位置にあるので、同盟を結ぶ事となった。  ペルシア軍は西アフリカまで攻めていったが、疲弊度が3%になったので、そろそろ講和をする事に決め、アレキサンドリアとガザを得る。  アレキサンドリアだけで58%も取ってしまったが、市場持ちの州だけに、ここは貴重である。

 1670年、ボヘミアが再びペルシアに警告を発する。どちみち悪名が高すぎるので、帝国は当分は戦争はしないこととした。  モスクワが再び周辺国すべてに攻められ崩壊状態になった。もはやモスクワ公のロシアでの覇権は終わったといえよう。

 1671年、メッカ、メディナなどが中核州となる。  またベドウィン文化をペルシアは継承し、アラビア半島の民の忠誠をより強める事となった。

 1672年、オマーンはペルシアへ外交併合された。これでアラビア半島に残るのはナジド一国のみ。だが評判を回復する為、併合は避けるのが帝国の方針であった。

 10月、ボヘミアが宣戦布告してくる。第三次ボヘミア=ペルシア戦争となった。  そしてこの戦いは、今までで最も激烈で苦しいものになった。

 グルジア戦線で無数に沸いてくるボヘミア軍相手にペルシア軍は苦戦を強いられていく。  2個軍団が全滅し、ペルシアで新たに騎兵のみの軍団の動員が行われた。  グルジアを席捲したボヘミア軍は、ペルシア領内へ侵入し、北方アストラハン地方を占領してまわった。  さらに小アジアでは、同盟国カラマンの大半を征服。カラマンはかろうじて降伏を避けている有様であった。

 さらに1674年に入るとドゥルカディル君候国もペルシアに宣戦布告した。スペイン、オスマン帝国の仲間とともに。  さらにモンゴルが警告を発する。明らかに戦争準備である。

 戦争疲弊が5.7%に入り、グルジアで3個軍団がボヘミア軍によって全滅した結果、Mohammad Ali帝はボヘミア王と講和交渉に入った。アクィレイアとアンハルトの属国解除を条件にボヘミアと講和した。  しかし、このままずっと、じりじりと攻撃されていったら、ペルシアはやがてまた辺境の小部族にまで転落してしまうだろう――。帝国は速急な対策が必要と思われた。

 敵がドゥルカディルのみとなったら、ペルシア軍の反撃が行われた。  まずオスマン全土を占領し、ブルサを差し出させて属国化。  次に疲れ切っているスペインに175Dと新大陸のルイジアナ独立(これはただの嫌味。他に独立できそうな国が無かった)で講和。  最後にドゥルカディルにAdanaの割譲と50Dの賠償金と属国化で降伏させた。

 その後、帝国全土で反乱が多発し、各軍団は火消しに駆け回る事になった。  むしろ、グルジア、小アジア戦線から移動させるより、現地で動員した方が早いので、即席の軍団が次々と作られ、帝国内で自己防衛をしていった。  結果、反乱の嵐が静まった時には、帝国軍は12万の兵力に増強されていた。

 Mohammad Ali帝は、ボヘミア領トレビゾンドと国境を接しないように、小アジアのErserumをグルジアへ無償提供した。今は、ボヘミアを刺激する事を避けながら、戦力を蓄えるしかない……。

Haidar I世の御代(統治8/軍事6/外交6 1679年-1715年)

 有能な新帝の治世、ペルシアはロシア諸侯との初の戦争を経験する事となった。また、帝国の重要な改革が行われた時期でもあった。

 戦争疲弊が回復するのを待ってから、Haidar帝はペルシアに警告を発しているモンゴルの討伐に入る。  ついでに小アジアに勢力を伸ばすべく、向こうが同盟破棄したカラマンに対して宣戦布告。小アジアには4個軍団、アストラハンには3個軍団で侵攻する。

 カラマン攻めは速攻でほぼ全土占領する。しかしカラマン領ロードス島へは海軍が無くて進めなかったので、ロードス騎士団の復活と、首都以外の割譲で講和する。  次にモンゴルも速やかに落としていく。まだ要塞LV1の州ばかりなので、当初の進軍はラクに進んでいった。首都サライを陥落させ、さらに北部へペルシア軍が向かっていったら、モンゴル主力2万によって3個軍団は撃破されてしまう。  そこでカラマン攻めの4個軍団を救援へ向かわせる。  サライもモンゴル軍によって奪還されてしまう。  だが4個軍団の援軍が到着したら反撃を開始し、モンゴル軍を撃破。各地を占領していき、5州を得て戦争終結する。属国のシビルに北方のモンゴル領を提供し、国境を整理した。

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 その頃、北米は東をフランス、中央をスペイン、西を英国が支配する。植民地独立運動はまだそれほど激しくなかった。  明国は南部をデリーに押さえられて、崩壊を続けている。また、日本は薩摩が朝鮮領になっている。

 1686年、新たにペルシア国内では国立銀行が設立された。

 1689年、悪評も落ち着いてきたので、再びペルシアは戦争を開始する。  今度はアルジェリアと、同盟国のイラク、シリア相手である。イラク、シリアにとどめを刺すのと、エジプトの領土を拡張が目標である。  ナジドはアルジェリアに外交併合されたので、これも取ることでアラビア半島はペルシアによって統一されるだろう。  シリア、イラクにはそれぞれ3個軍団、エジプト、アラビア半島には2個軍団を配置してペルシアは侵攻を開始。  まずダマスカス、バグダッドを速攻で落としてシリア、イラクを帝国に併合した。  アルジェリアのエジプト駐屯軍を騎兵軍団で撃滅し、エジプト各地を占領していく。  先行する騎兵軍団がSirtで西から襲来してくるアルジェリア軍を撃破しつつ、エジプトからの援軍4個軍団の到着を待ち、それから一気に落としつつ西進していった。

 だが順調に進むかと思われた戦争は、思わぬ齟齬に遭う。  1691年6月、ノブゴロドが宣戦布告。ビザンチン帝国も参戦。

 そこでHaidar帝はナジドとエジプトの飛び地2州でアルジェリアと講和した。  これでペルシアの悪名が26.53/31.00に上昇する。ノガイが警告を発した。  しかしアラビア半島、イラク、パレスチナ、エジプトデルタ地方は完全にペルシアのもとに統一された。

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綺麗に統一されました

 すぐに北アフリカの軍団を今度はロシアへ向けて北上させていく。しかし距離がありすぎて、現地の2個軍団のみが当面の戦力となった。  だが名将Hosayn Qazaiが活躍し、Tambowの戦いでノブゴロド軍を全滅してくれた。  ビザンチン軍は2個軍団で続々と小アジアのオスマン、ペルシア領を占領していく。  ペルシア本国では第13軍団の動員が開始された。

 だが戦争疲弊が5%を超えているので、すぐにノブゴロドに75D払って帝国は講和した。忌々しいノブゴロドどもめ! とシャーは言ったという。  そこで属国のクリミアに、同じTartar文化の旧モンゴル北部の3州を譲渡して、ロシア諸侯に対する盾国家にする。

 その頃、帝国のインフレは27%に達していた。歴代シャー達は減少を望みつつも、13万の大軍も維持しないといかず、その機会が無いのだった。

 1695年、ノブゴロド=ビザンチンがモスクワ公に宣戦布告し、周辺国も続々と宣戦。再びモスクワリンチが始まる。

 1698年、悪評が高すぎて戦争の出来ない時期を利用して、Haidar帝は西洋化を完成させる事に着手した。このイスラム的には思い切った改革の結果、ペルシアの技術力は一気に加速する事となる。

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 また外交官を二人雇って諸国の悪評を解除するように帝国は努めた。

 この時期、帝国は戦争ではなく外交によって拡大していった。  エジプトマムルーク朝のスルタンはペルシア帝国への併合に同意したのも、その一例である。

 1707年、ベイルート、ユダヤ州が中核州化したのに伴い、ペルシア海軍は地中海艦隊を編成開始した。この艦隊は以後、バルカン、欧州への侵攻や部隊輸送で活躍することとなった。

 また1708年、Haidar I世は帝国改造の総仕上げとして、帝都をバクーからFars州のイスファハーンへ遷都し、帝国の新たな中枢とした。

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新帝都イスファハーン

 後に「イスファハーンは世界の半分」と呼ばれるまでになる栄光の都の始まりである。  もっとも、これで安定度が-2に転落し、再び治安回復まで帝国は不穏な時期が続いた。

 税収50%上昇するConstableが建造可能になったので、帝国各地で豊かな州から建設されていった。  1711年、マスケット銃が西洋に遅れること100年でペルシアでも建造可能となったので、ペルシア軍は歩兵、騎兵とも装備していった。

 1714年、ノガイからの警告も解除されたので、黒海ギリシアへ宣戦布告し、ウクライナとも戦う。これはボヘミアの同盟国崩しを狙ったものである。  ペルシア地中海艦隊は黒海へ輸送してカッファへ上陸作戦を行う。またモスクワ公に軍通行許可を貰ってグルジア方面から4個軍団が移動し、ギリシア、ウクライナを占領していく。

 その勝報が続く最中、シャーは死去する。この偉大な改革帝によって、帝国は質量ともに世界の列強の一角を占めるようになった。


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