それは、最も過酷な内戦であった。 Jahan Shah III世は、反乱軍の勢いに戦慄させられる。旧ペルシアの家臣らが主導する反乱は、黒羊朝軍より士気が高く、同数の戦力で戦ったら4~5倍は被害を受けてしまう。 あたかも滅びたペルシアの怨霊との戦いのように。 キヴァ、モンゴルの援軍が無かったら、確実に黒羊朝は滅びていただろう。
「陛下、すでに国内の三分の一は叛徒どもの手に押さえられました。また国内の成年男子は底をつきましたぞ。もう兵は雇えませぬ」 宰相が伝えると、Jahan Shahは、天を仰いだ。 「もはやホラサンどころではない。生き延びる為に手段を選んでいられん! 国庫にすべての資金を送れ。また、傭兵を雇えるだけ雇え!」 Jahan Shahの命令により、『首長側』についた州全てで即座に傭兵が動員されていった。だが、戦線は流動的であり、傭兵が出現するまでに反乱軍が移動する事が多く、動員直後に虐殺される傭兵が相次いだ。 生き残った傭兵も、集結して部隊ごとに前線(すでにこの内戦では後方という概念は無くなっていたが)へ送られ、短い生涯を閉じていく。 資金を得たら即座に動員して前線へ移動。もはや軍団を編成する時間の余裕すら無い。 両軍にとって過酷な内戦が続いた。 だがようやく、4年後。反乱軍は大半は滅び、黒羊朝はかろうじて生き残った。 反乱軍が殺到したキヴァは革命が起き、ドゥラニは崩壊してバルチスタンが復活したが……。
1551年5月、黒羊朝は反乱の爪痕もようやく回復してきた。Jahan Shahはホラサン戦争を再開した。盟主のカザクへ宣戦布告するが、モンゴルが独立保護をしていたので、モンゴルは同盟を破棄して敵盟主として戦争となる。
黒羊朝軍の3個軍団で一斉にホラサン2州へ向けて進軍する。 カンディル君候国が80Dを払って、まず脱落。
9月には2州とも黒羊朝軍が占領した。しかしカザクの属国なので単独交渉はできない。カザクから属国解除させないといけない。 モンゴル軍がグルジアへ侵攻してきたので、1個軍団はグルジア救援に、1個軍団はカザクへ侵攻した。残った軍団は本国で反乱に備える。 1552年6月、カザク首都Turkestan占領。さらにモンゴルのAstrakhanも占領し首都サライの包囲に入る。 だが、本国のAjamと東方離れ地のGhrarchistanで反乱が開始され、モンゴル軍によって1個軍団が敗退するなど苦戦が続く。 そこでJahan Shahは敵盟主のモンゴル汗に直接交渉を行った。 「陛下、朗報であります」使者がJahan Shahに告げた。「モンゴルの汗は、Khurasanの割譲を認めましたぞ」
「ほう。ホラサンの首都、さらに、まだ他に領土があるのに割譲してくれるか」 「陛下、これは朗報です。我々はホラサンどもと二度戦う必要も無くなりましたぞ」と宰相が告げた。 「うむ。汗殿にその条件で受け入れたと伝えよ」 「はっ」使者が北へと走っていく。
「陛下、これでもう我々は、ペルシアになるのも時間の問題であります」 「長く苦しい闘いであった……。我が歴代の首長、そして先祖Qara Yusuf様の意志は、ようやく達成されよう……」
Jahan Shahは、その夜、家臣らと喜びの宴をしたという。
1561年、Jahan ShahはMilitia Actを採用した。 また首長はデリーに属国を外されたアルメニアに対して同盟解除して戦争をした。独立保証していたビザンチン、黒海北岸のギリシア共和国とも戦争となる。 アルメニアは速攻で落として再属国化された。アルメニアの民は、自らの運命が黒羊朝の外交に左右される悲運を味わった。 だが、黒海北岸のギリシアとの戦いでは黒羊朝軍は苦戦する。さらにビザンチンの大軍がシリアへ押し寄せていた。 このまま時間がかかれば、なお被害が大きくなると判断したJahan Shahによって、ビザンチンに同盟国シリアの領土を一つ割譲して終戦した。 ギリシア、ビザンチンの陸軍技術LVが17なのに対して、黒羊朝軍はLV9しかない。ちなみにフランスはLV21になっている。 「以後、ラテン人どもとの戦いは避けるのが賢明だろう……」とJahan Shahは慨嘆した。部族国家ゆえに技術が追いつけないのである。さらにイスラムの保守性も、技術革新を阻んでいた。 「といっても東のインドはデリー帝国が北部のみならず中部まで統一しております」と宰相。 「キヴァが壁になってくれているから、奴らの侵攻は阻めているようなものだ」 「デリーは先日、明帝国を破って領土を中央アジアまで広げております。我々ではとても勝てまんな」 「西も東も駄目、となると、我々が進むのは南がよかろう。イラクとアラビア半島征服を次の黒羊朝の目標としよう」
1565年、Hormuzに3度目の宣教師が派遣された。今度は黒羊朝は2個軍団を市に待機させ、スンニ派の反乱に対処する厳重警戒の中、宣教師らが市民にシーア派の教えを布教する。そして3年後、ホルムズ市民はシーア派の教えを受け入れる事となった。 また、東端のMakranが中核州化し、1569年にはLuristanとHormuzも中核州となる。旧ペルシア国民は少しずつ黒羊朝の統治を受け入れるようになってきた。彼らこそ、真のペルシアなのだと。
1573年、長年の交渉の結果、イラク王はようやく黒羊朝と同盟を結ぶのを同意した。これでシリア、イラク、キヴァ、オマーン、グルジア、アルメニアが黒羊朝の同盟となる。
1575年、Jahan Shah III世は、黒羊朝がペルシアとなるのを待つことなく崩御した。だが、その意志は王子のQara Yusuf II世によって受け継がれるだろう。
長年の黒羊朝の慎重な善政は、首長継承の反乱を3州のみに限定した。 だが、反乱軍は圧倒的に強く、各地で討伐に向かった黒羊朝軍は敗退した。1個軍団は壊滅する。 もう技術的に反乱軍には勝てなくなったのを判断したQara Yusufは、旧ホラサンの東部離れ地の2州は放置するよう命じ、本国の防衛に専念する。 動員を南部で行うが、更なる反乱が続々と起きて、2州では新兵が虐殺される。 イラクやキヴァ軍の手も借りながら討伐を続け、苦しい戦いが続いた。3年後にはようやく、本国は安定した。 1万の反乱軍が東部のMakranを包囲しており黒羊朝軍では手が出せなかったが、キヴァ軍によって撃破してもらったのが勝因となった。
東部離れ地の旧ホラサン2州は維持する価値が無いのと、デリー帝国と国境を接しているのは危険すぎるという理由から、属国のドゥラニに無償提供された。 もっとも2州はすぐに反乱軍によって占領され、ホラサン独立となったが。
黒羊朝のGoverment LVが9になり新しいナショナルアイデアが得られたので、Unam Sanctamを黒羊朝は採用した。シーア派聖戦主義が黒羊朝内で盛り上がっていった。
1585年、ティムール帝国は黒海北岸でボヘミアと戦っており、国内はほとんど反乱軍によって占領されていた。そして西の飛び地Sharizhorは、以前に黒羊朝は領土主張をしており、中核州となっていた。 Qara Yusufは次のターゲットはこの飛び地に決める。正統な支配者を大義名分として開戦する。 ティムール帝国の同盟国の一つのイェメンにQara Yusufは宣戦布告した。マムルークも独立保証をしていたが、もはやたいした敵ではない。むしろ同盟国の一つのアルジェリアの方が危険な敵であった。 他に東アフリカのスワヒリとも戦うこととなった。資金をためこんだアフリカ部族から略奪するのも、今回の戦争の目的であった。 Sharizhorは第3軍団による突撃で速攻で落とし、あとはイェメン討伐にアラビア半島へ向かわせる。第2軍団はペルシア湾艦隊に乗せて東アフリカのスワヒリ領へ、残りの第1軍団は東のティムール本国へ進軍。ティムール本国はほとんど反乱軍支配下にある。
まずアラビア半島中央のナジドが根を上げて、50Dで講和。 マムルーク軍がイラクまで侵攻してきたので、第3軍団は予定を変更して防戦に入った。
黒羊朝アフリカ遠征隊は要塞の造り方を知らない部族にたいしてはラクに進撃していき、スワヒリ全土を占領した。族長に対して賠償金2500D払わせる。
それからティムール帝国に対してSharizhorを提供させて1586年1月、戦争は終結した。ティムール帝国最後の西方領はこうして黒羊朝へと帰属したのだった。
Khurasanのシーア派への改宗も同時に成功し、次に新領土Sharizhorのシーア化に入る。
1588年、黒羊朝はアルメニアも領土にする事に決め、属国を破棄し、宣戦布告した。しかしビザンチン帝国がすぐに独立保証していたので、ビザンチンとも戦争となる。
即座に1個軍団によってアルメニアを占領。なぜかアルメニアはソコトラ島も領土にしていたので、併合は出来なかったが、アルメニア本国を割譲させる。
同時に、ギリシア継承権戦争によってモスクワ公がビザンチンと戦争に突入した。 黒羊朝軍はグルジアへ進出してきたビザンチン軍3万と戦うが、技術差がありすぎて敗戦を続ける。 シリア軍がアレッポを占領したが、これ以上戦うのは損害が大きいと判断したQara Yusufは、25D払う事で講和した。すでにアフリカ部族から大量の資金を得ているので、問題にならない。 その後、黒羊朝軍はグルジアに沸いた反乱軍14000と戦うが、同数の数では、こちらが6000の損害を出して、敵に与えたのはわずか70人であった。 しかしめげずにグルジア軍と一緒に4回敗北した後に全滅させる。
シリアがイラク継承権戦争によってイラク・オスマンと戦い、大きく領土を減らす。 またシリアはアルジェリアの属国となった。これによって黒羊朝との同盟は破棄された。 オスマンが新たに小アジアの帝国として復活した今、Qara Yusufは同盟を結びたいと考え、何度も使者を送り(「Unlikely」の可能性だった)同盟を結んだ。
イラク継承権戦争は、モンゴルがイラクの大半を占領したが、結局オスマンと賠償金で手を打ったようだ。Qara Yusufはイラクへの進出を熱望していたが、イラクはキヴァ、デリーなど無数のイスラム同盟を結んでいて手が出せなかった。キリスト教国と比べイスラム国は数が少ないので、お互いに大国が何重も同盟を結び合っている。それが領土拡大のネックとなっていた。
1595年、黒羊朝は、シーア派の信仰の擁護者を宣言した。12イマーム派の信仰が全土で盛んに行われた。 この年、ビザンチン帝国は、すでに東欧の大国となっているボヘミアに酷くやられて、ギリシア諸国やトレビゾンド、騎士団を復活させられた。 すぐにオスマンがトレビゾンドに宣戦布告したので、Qara Yusufも義理参戦した。さらにカザクと継承権戦争になったキヴァにも義理参戦。一応、小アジアのカンディル君候国へ兵を送る。 すぐにトレビゾンドはオスマンに併合される。2個軍団はカンディルにも送るが、半分占領したところでキヴァに賠償金を払って脱落した。 これで義理は果たした、と黒羊朝軍は本国へ帰還したのだった。 結局、すぐに白紙講和で戦争終結。イスラム諸国はいずれも疲弊が激しく、長期の戦争ができないのが現状であった。
1597年、アルメニアのシーア化が完了した。また、黒羊朝も技術革新によりワークショップが建造可能となったので、アフリカで得た資金によって国中に建設されていった。 だがそれで金が無くなったので、Qara Yusufはまたスワヒリ様のところへお金を貰いに行く事にした。
エチオピア地方のアダルに宣戦布告すると、ナジドとスワヒリとも戦争となる。 ナジドのアラビア半島北東岸エリアの征服も、今回の戦争目的である。
2個軍団をオマーン領に配置し、艦隊に乗せたスワヒリ遠征隊が海岸に着いた1599年1月、アダルに宣戦布告する。 ナジドはカタールを落とすが、他はすべてイラクやオマーン軍によって占領される。 そこでカタールのみ所有し、属国化させて講和した。 スワヒリは南のモザンビークのアダル軍が邪魔したりして手間取ったが、全土占領して2500Dで講和。すぐに黒羊朝は獲得金でワークショップを全土に建てたという。
またアダルは適当に占領してから、モザンビークの割譲と150D賠償金で講和。モザンビークは維持するには遠い場所にあるが、次にアダル、スワヒリを攻撃する時にラクになるというのが理由であった。 その後、ナジドとも(何度も断られた後に)黒羊朝と同盟を結んだ。アラビア半島に黒羊朝の覇権は確立されたといっていいだろう。
1603年、ついにKhurasanが中核州に昇格した。 これによって、最後のペルシア化条件が満たされた。
そして首長Qara Yusuf II世は、黒羊朝によるペルシア帝国の復活と、自らが初代シャー(王)に就く事を宣言した。
政府タイプも、部族連合からTheocracy(神権政治)となった。 黒羊朝部族の時代は終わり、継承危機に怯える事無く、黒羊朝――いや、ペルシア帝国はさらに領土を広げられるようになった。 Qara Yusuf II世は、即位式の席にて家臣らに告げた。 「余はこれからペルシアの拡大とイスラム世界の守護者となる事をアッラーに誓おうと思う」 「はっ」家臣らが頷く。 「だが、それにはイスラームの神都メッカ、メディナを支配は欠かせない。次なる帝国の目標は、アラビア半島制覇であると卿らも記憶しておくといい」 「御意。すべては陛下の御意志のもとに」
Sharizhorのシーア化も完了し、ペルシア国内にスンニ派は消滅した。 そしてスワヒリ様のおかげで、しばらくお金の心配も無くなったので、帝国は第四軍団の編成も開始した。
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モンゴルと同色になったのでまぎらわしいが、現在のペルシア領土。 デリーはすでに東南アジアまで進出して手が出せない。
シャーQura Yusuf II世はアラビア遠征の次の相手として南のイェメンを選んだ。 アラビア半島にペルシア軍3個軍団を配置し、残りの軍団はモザンビークに置く。そして、スワヒリに宣戦布告すると、同盟のアダル、イェメンとも交戦。 同盟国のオスマン、キヴァ、イラク、グルジア、ナジドなどお馴染みの面々も参加する。 オマーンはマムルークと共に、シリアを外交併合したアルジェリアと交戦中なので協力できそうにないが、一応参戦してくれた。
ペルシア軍は突撃を繰り返しながらにアラビア半島南部のイェメン全土を次々と占領。まだ紅海西岸に2州が残っているが、戦勝点96%になったので講和交渉に入る。 取り分であるが、Mochaはイラク軍に占領されたので除外、Adenもナジド軍に占領されたので除外し、残りを要求するとともに属国化。さらに50Dの賠償金。これでちょうど100%になったので交渉成立した。
スワヒリは途中で反乱軍が蜂起して引き返す羽目になったりしながらも全土占領し、2500Dの賠償金で終了。
残りのアダルに対しては、イラク軍がすでに上陸していたが、続いて3個軍団で占領していく。 ほとんど占領してから、市場のあるAwsaなど7州を得て講和。 ここには反乱対処に2個軍団を置き、ペルシア本国の東西に1個軍団ずつ置く。 また新領土の各地でシーア派への布教も開始された。
そして属国のイェメンと同盟を結ぶ。イェメン、ナジドは外交併合を狙うが、ペルシアの神権政治だと他国の王家との婚姻が許されていない。つまり同盟国のオマーンは武力での属国化しかない。オマーンがメッカ、メディナの両都を保有している以上、自ら神都の直接統治を望む帝国との対立は不可避であった。
1610年2月、初代ペルシア皇帝Qara Yusuf II世「大帝」は崩御した。 皇太子のIsmail I世が即位をする。継承危機での反乱は無く、帝国の二代目シャーの即位式は滞りなく行われた。