Jahan Shah II世の即位は、内戦の流血ともに始まった。 8000の対立首長反乱軍がアゼルバイジャンで蜂起し、そして非中核州の3州でも反乱。 そして2年間、すべての州の反乱率が+10%となり、黒羊朝は内戦の時期に入る。
南方の反乱は比較的楽に片付いたが、北方の叛軍には敗退してしまう。 ここで反乱成功させたらナショナリズムが10年延長される。それを危惧したJahan Shahは、南方から援軍が到着する前に再び攻撃を命じ、そして撃破に成功した。
そしてもっとも危険なアゼルバイジャンの僭称者反乱に対しては、戦力が足りずに後回しにしていたが、占領率100%になったので全軍で突撃。比較的あっさりと勝利する。
あとは領内を逃げ回る反乱軍を個別に追撃、撃破していく。 Hamadanでの最後の反乱軍に対しては、イラク軍の援軍とともに戦い、撃破した。 だが、1482年にGilanでIskandel II世を自称する反乱軍が出現し、さらに内戦は長引いた。 結局、7月になって、ようやくすべての反乱は終熄したのだった。
黒羊朝は、このような継承危機内戦を、これから首長が代わるたびに、ずっと続ける宿命となった。
オマーンが同盟の使者を送ってきたのでJahan Shahは応諾した。オマーンはアラビア半島の東にも拡張をしており、メッカ・メディナ両都の支配者でもある。
そしてモンゴルがノブゴロド・ビザンチン帝国に戦争をしたので黒羊朝も義理参戦する。さらにハンガリーがモンゴルに侵攻したので義理参戦。どうせ自国まで来ないだろうとたかをくくっている。 1483年、さらにノガイ・キヴァもモンゴルに侵攻して義理参戦。Jahan Shahはさすがに見捨てようかと迷い始めていた。 それからチャガタイ汗国に明が宣戦布告したらモンゴルも参戦。
モンゴルは、まずノブゴロドに対して、Zaporozhieを独立させて講和した。ハンガリーに対しては、黒海の残りの領土を割譲。ノガイに対しては、カザン、リャザンの独立で手を打つ。 こうしてモンゴル帝国は崩壊していった。
この戦いでのハンガリーの躍進が目立つ。さっそくハンガリーはZaporozhieへ侵攻し、さらに黒海領を広げた。
1493年、Jahan Shahは国庫に金が無くなったのを知り、恒例の略奪戦争をペルシアに対して開始する事にした。 ついでにペルシアを滅ぼす準備として首都以外の州をすべて取る事にも。 しかし、ペルシアに直接攻撃したら独立保証しているホラサンも参戦してくるので、東の同盟国のデリーに黒羊朝は宣戦布告した。デリーが敵同盟主となる。
同盟国のモンゴル、キヴァ、オマーンも参戦した。もっともモンゴル、キヴァはすぐにデリーと白紙講和した。
1495年、1個軍団で延々と往復ビンタを続けた結果、北方領にいたペルシア軍主力をようやく全滅させる。西方領も別軍団が落とし、あとは南方の首都ホルムズのみ。
1496年3月、ホルムズ陥落。ペルシアに首都以外の3州を割譲させ、賠償金150Dで講和する。 同盟主のデリーとは直接戦うこともなく白紙講和した。
すぐに北東の新領土のGundanをキヴァに無償売却。あとは、そのまま保持する。 中核州でない州をこれだけ保有するのは危険だが、わざわざ仮想敵国のイラクに渡すのももったいないと首長は考えていた。
1499年、モンゴルがノガイに侵攻。しかし、参戦したらキヴァとも交戦する事になる。そこでJahan Shahは辞退した。もっともすぐにモンゴルとの同盟を結び直す。
東方では、バルチスタンの真ん中にドゥラニ国が誕生し、バルチスタンは東西領に分割される。 「介入したいところだが……新領土が中核州になるまで、更なる戦争は自粛しよう」 首長は諦めた。部族国家だと、なかなか上手く領土拡大できない。
1504年、ついにバルチスタン全土はドゥラニ軍に占領され併合された。 そしてペルシアはデリーの属国となった。これでは戦争をしかけられない。Jahan Shahはペルシアがデリーに外交併合されるか属国解除されるのを待つ事にした。 もっとも、彼にはその時間がもう無かった。
1506年、Jahan Shah II世は崩御した。この首長の御代、黒羊朝はペルシアに勢力を伸ばし、次の世代へと繋げることとなった。
恒例の継承危機の内戦をIskander II世は、上手く捌いていった。反乱は南方中心にまとまったので、戦力の集中が可能となり、速やかな首長権確立に成功した。 1507年3月、すべての反乱は収束。Iskander II世の統治が始まった。 Iskandelは長期に渡って黒羊朝を統治する事となった。この首長の時代、黒羊朝はペルシア化へ向けて、さらに東へ領土を拡大していく事になる。 だがそれは、苦しい闘いの連続でもあった。
1508年、ペルシアがついにデリーに併合された。 これで再び黒羊朝のNational Decisionsにペルシア化が提案される。まだ足りないのは、MakranとKhurasanの2州。Khurasanは強大になったホラサンの首都だけに厄介である。
小アジアではオスマン帝国が復活し、カラマンを滅ぼして勢力を回復させている。
1512年、新領土の3州が中核化した。これでまだ中核州でないのは2州のみ。 Iskanderは再び戦争の準備に入った。 次はペルシア必須州Makranを得るべく、ドゥラニに戦争をしかける。
だが、どのドゥラニの同盟国を選んでも、デリーと戦う事になる。デリーは今や北インドを統一した巨大帝国となっていた。弱小国の黒羊朝では相手にならない。だが、勝ち目があるとしたらデリー軍が展開する前に戦争を終わらせる事である。
1514年9月、Iskanderはグジャラートに宣戦布告し、ドゥラニとチャガタイ汗、デリー、モルディヴ島と戦争となる。 ドゥラニからMakranを得たら、すぐにインド勢力と講和するのが首長の計画であった。
まず全軍2万でデリー領ホルムズを威勢良く落としてから、Makranも突撃ですぐに落とす。 そして講和が検討されるが、まだドゥラニは受け入れないようなので、その東隣のBaluchistanも落とした後、Makranを得て1515年3月、講和を結ぶ。 グジャラートもボロボロだったので、賠償金50Dで講和。チャガタイ汗からも同様に50D貰う。
あとの敵はデリーのみだが、ホルムズは市場持なので60%は戦勝点が必要なので論外であった。Iskanderは、「ホルムズは反乱で独立した隙に奪取するしかないだろう」と側近に伝えたという。白紙講和も受け入れられず、デリーとは冷戦状態が続いた。
そしてホルムズで反乱が起きたので、反乱軍に占領させる。その後、北上してきたのでKermanの地で全軍で迎撃したが、黒羊朝軍が一方的に数千人殺されて敗退した。すでに反乱軍の方が技術的に上になって勝てなくなっている。さらに西方でLuristanが反乱が起きる。もう黒羊朝には対応する余裕が無かった。いずれも成功し、ナショナリズムが10年延長される。
部族の危機に対してIskanderは自ら将軍となって親率し、軍の士気回復を待ってから再戦。ようやく両方とも撃破する。基本的に継承危機が起きるようになってからは首長は戦場には出さないのが黒羊朝の伝統なのだが、そうも言ってられない状況であった。外国軍より反乱軍の方がずっと手強い。
デリーとは時間切れで白紙講和となった。
1518年8月、ホルムズと黒羊朝軍が包囲中のLuristanが同時にペルシア領となり、ペルシアが復活した。 もっともすぐに両州とも奪回し、ペルシアを併合。 新領土のホルムズにもシーア派宣教師が送られる。だが成功率が3%しかないので、望み薄であった。
またこの時、黒羊朝内でJizya税の導入も行われた。反乱率が上がるが税収アップは貧しい黒羊朝にとって貴重である。
その頃、他の世界では―― カスティーリャはスペインへと成長し、ポルトガルとともに新大陸の植民を行っている。 北欧ではなんとフィンランドがスウェーデンを併合した。またチュートン騎士団はプロイセンになっている。 ハンガリーは衰退し、ボヘミアが拡張してきている。 東欧ではリトアニアが滅亡し、モスクワ公とノブゴロド公が相対している。 明帝国は南部の反乱が朝鮮に領土を与えている。しかしまだまだ強大である。
1523年、黒羊朝はオマーンとの同盟を破棄し、代わりにティムール帝国と対ホラサン用の同盟を結んだ。
そして1524年1月、Iskanderは最後のペルシア化必須州を持つホラサンへの戦争を開始した。敵の同盟にカザク、デリー、カンデシュがあり、その中でもデリーが危険な敵であるが、今回もまたデリー軍主力が来る前に決着をつけるのが黒羊朝の計画であった。 同盟国のモンゴル、キヴァ、ティムールも参戦。一斉にホラサン領へ侵攻開始。
しかし同時に西方で反乱が起き、1個軍団はそちらへ移動させなくてはならなかった。 突撃に失敗し、なかなか落とせなかったものの、Khurasanの周辺州をすべて陥落させる。 そして、講和で首都周辺を割譲させる。これでホラサンが首都移動するのを待つ事にした。
途中、モスクワ大公国がモンゴルに宣戦布告したのでIskanderは義理参戦した。さらにティムールがノガイに宣戦布告したが、これは参戦拒否して同盟破棄する。
しかしデリーとはなかなか白紙講和できない。さらに2州で反乱軍が蜂起し、鎮圧できずに苦戦する。 そのうちに、南東よりカンデシュ軍が侵攻してきた。だが黒羊朝には対処する戦力が無かった。 Iskanderは賠償金を支払っても講和しようとするが、足元を見られていて、なかなか成功しない。
黒羊朝軍は反乱軍への速急な対処を諦め、まずカンデシュ軍をなんとか撃破したが、中央のDash-i-Lutが陥落してしまった。第一軍団で奪回して、第二軍団はさらに領内へ侵攻してきたデリー軍を撃退に向かう。 だがデリー軍は1万を超えていたので、黒羊朝軍は敗退してしまう。
ここでIskanderはデリーと講和する事にした。金がもったいないので、アルメニアの属国を解除するという条件で講和した。どちみち、黒羊朝はいつでも戦争して取れる国である。
すぐに新領土のHeart,Sistanをキヴァに無償提供。必要なのはホラサン首都のみである。
1527年9月、アルメニアとの同盟を破棄してから宣戦布告。ビザンチン帝国が独立保証していたので参戦する。
アルメニアは速攻で2万の全軍の突撃で陥落。再属国化と50Dの賠償金を取る。 しかしビザンチン帝国がしぶとく抵抗する。黒海を渡って何度もグルジア領へ上陸作戦をしてくる。それをいちいち、第2軍団で撃退していった。
黒羊朝の東部では反乱軍が抵抗し、第1軍団はこちらで戦い続ける。
1532年、ビザンチン帝国が主力を上陸させてきたので、1個軍団では苦戦する。結局、グルジアの半分を占領され、このままでは黒羊朝本国まで攻められそうなので、属国のトレビゾンドを割譲して講和する。
さらにIskanderは凶報を聞くこととなった。黒羊朝のホラサン首都移動作戦は、Heratが反乱軍によってホラサンに戻ってしまった事で失敗に終わった。やはり、ホラサンを滅ぼす以外にKhurasanを得る道はないとIskanderは覚悟を決めたのだった。
平時でも黒羊朝は厳しい状況であった。1536年、スンニ派の暴動がホルムズで起きる。1万3000のスンニ軍に守備軍団は敗退。全軍で攻撃するが、4倍の損害を出して敗退する。もう黒羊朝は反乱軍には勝てなくなった。 結果、ホルムズは陥落してシーア派宣教師が皆殺しに遭う。 なんとか三度目の攻撃で落としたが、Iskanderはもう成功率3.8%しかないホルムズには宣教師は送らない事に決める。 もっと黒羊朝の軍備に余裕ができるまで、宣教師を送るのは自殺行為となる。シーア派、スンニ派の不穏な平和がホルムズ市では続くことになる。
1538年6月、デリー帝国は南インドのヒンドゥー諸国へと侵攻した。Iskanderはこの隙に、再びホラサンとの戦争を開始する。彼らのヒンドゥー偶像崇拝者へのジハードを邪魔するのもイスラム的には気が引けるが、Iskanderは現実主義者であった。 同盟国のモンゴル、キヴァも参戦。
開戦と同時にMakranで反乱が起きたので、第1軍団はそちらへ送る。第2軍団のみでホラサン侵攻。 順調に首都を落とす。モンゴルが攻めたカザンは賠償金50Dを払わせ戦争脱落。
ホラサン東部に向かうとデリー軍と遭遇。しかし少数だったのでモンゴル軍と共に撃破しながら占領していく。
だがGilanで反乱が起きる。さらにMakranでも再度の反乱。ギリギリの戦いを続ける黒羊朝には送る戦力は無い。仕方なく前線から1個軍団を引き抜いて移動させる。 だがGilanにはわずか60日で陥落したという凶報を聞く。その為、Iskandelは救援軍をまずMakranへ向かわせる。 また、国内で第三軍団の動員を開始するようIskandelは将軍達に命じた。「もはや2個軍団20000のみの戦力ではいろいろ苦しすぎる」と首長は告げたという。
そして東部よりデリー軍2万がホラサンへ近づいているという報を聞いて、Iskandelはもう戦争は限界が来たのを悟った。Iskandelはホラサンに講和の使者を送る。残念ながら首都のみの州には出来なかったが、2州国にまで落とす。
この時、シリアも同盟の使者を送ってきたので応諾する。
さらに1540年3月、黒羊朝の弱体を見たドゥラニが宣戦布告してくる(ティムール、グジャラート、カンデシュのおまけ付き)。 そこで、アルメニアの属国解除を条件にIskandelはデリー皇帝と講和をした。アルメニアはほとんど生け贄専門国家となっている。
カンデシュ、グジャラートは最初から疲弊していたので、賠償金を払わせて講和。ティムール帝国とは白紙講和。 これでドゥラニのみとなったので、Iskandelは懲罰を決意し、属国化させるべく戦争を続行する。黒羊朝も戦争疲弊が苦しく、国内に反乱軍が割拠していたが、首長は兵らを叱咤して、戦いを続ける意志があった。
国内ではGilanの反乱軍と戦うため各州で兵を動員していたが、そこへ反乱軍が移動してきて2000の新兵が皆殺しに遭う。だが残りは動員に成功し、集結させてから反撃開始。反乱軍を撃破していく。
だがここで、新たな戦争が開始された。モンゴルが継承権戦争によってカザクと戦争。参戦要請があったが、敵の中にはホラサンもあったので、Iskandelは参戦する事にした。
1541年10月、ドゥラニ全土の占領に成功したので賠償金50Dと属国化させる。 そしてカザクから白紙講和の使者が来たのでIskandelは応諾する。 ホラサンは、カザクの属国+同盟となったようだ。これで以後デリーと戦わなくて済むのはありがたいとIskandelは言ったという。巨大なデリー軍相手にほとほと苦しみ続けた為である。
1544年4月、Iskander II世崩御。ペルシア、ホラサンを征伐し、黒羊朝を東へと拡大させていった覇王は、惜しまれながら亡くなり、新首長Jahan Shah III世の御代となった。
そして継承危機の内戦が開始された。黒羊朝史上、最も過酷な戦いが。