父の崩御によって新たな黒羊朝の首長となったJahan Shahは、国内の資金が尽きつつある現実に気づかされた。部族国家の常として、この場合は略奪に頼ることになる。そこで周辺国の中でビザンチンからハンガリーの手で独立したばかりのトレビゾンドへ攻めていった。 だがこの時、イラクが同盟を破棄してしまった。 黒羊朝軍の果敢な突撃によってトレビゾンドはすぐに陥落し、50Dの賠償金と属国化を飲まされることになる。 さらにハンガリーとも戦争となるが、お互いに打つ手がないので、首長は放置する事を命じた。 その間、黒羊朝はモンゴル、キヴァとも同盟を結んだ。北方のモンゴルは強大な戦力の援軍が期待でき、東方のキヴァは、対ペルシア、ホラサン戦の両方で使える位置にある大切な同盟相手となろう。
やがてハンガリーが白紙講和の使者を送ってくるようになったので、Jahan Shahは、逆に100Dの賠償金を払うように要求して講和する。
これで経済的に一息ついた黒羊朝は、軍備を増強し常備軍を1万ずつの2個軍団にした。これに友軍のグルジア軍1万も加わる。 それぞれ国の南北に両軍団は配置され、反乱に即座に対処するのが、黒羊朝の基本戦略となった。
1428年6月、マムルーク帝国が小アジアのドゥルカディル君候国に宣戦し、黒羊朝にも参戦要請が来る。しかしドゥルカディルの同盟国の中にティムール帝国とイラクがいるので、開戦となってしまう。 が、マムルークとの同盟は堅持すべきと考えた首長は参戦を決意。イラクは現在、エチオピア地方のアダルと戦争中なので主力軍は留守なのも大きい。
第1軍団は西のティムール領へ侵攻し、少数の守備軍を撃破。その間に第2軍団はイラク領へ侵攻した。
一方この時、欧州側のオスマン領がすべて反乱軍に押さえられ、一斉にビザンチン領に帰順する事件が起きた。 こうしてビザンチン帝国が復活した。ここまでトルコが弱体化するのは非常に珍しい。
黒羊朝軍はイラクとティムール西方領すべてを占領するが、義理参戦なので講和はティムール帝国とのみ可能。Jahan Shah首長は賠償金を取ろうとするが、ティムール帝国も東方では善戦しているので拒否される。
そうしているうちに、1430年3月、マムルークは講和して、黒羊朝はくたびれ損となってしまった。 さらに直後、首長は衝撃を受ける事になる。マムルークは黒羊朝との同盟を破棄した。
ついでに、というべきか、黒羊朝もオスマン帝国との同盟を破棄する。ここまでオスマンが小国になると、もう戦略的に手を組む意味が無くなった為であった。下手に結んでいてビザンチンとの戦争に巻き込まれるのも損、という首長の冷徹な判断でもある。
1431年2月にホラサンから同盟の使者が来たので応諾。ペルシア包囲網の一角となろう。 これで現在の同盟国はグルジア、モンゴル、キヴァ、ホラサンとなった。 Jahan Shah首長はイラクとも仲直りの婚姻を結んだ。 そして1433年6月、Jahan Shah I世は、その早世を惜しまれながら崩御する。
Qara Yusuf I世(実際はII世?)の御代で唯一歴史に知られるのは、首長が1437年にティムール帝国から独立したばかりのアルメニアに攻め入って75Dの賠償金と属国にした事である。 この時代、黒羊朝の商業は低調であった。通商禁止されたアレクサンドリアの商人は全滅し、代わりにモンゴル領のアストラハンに商路が開拓されていった。
Hassan' Ali首長は有能な統治者であるとともに、果敢な戦士として黒羊朝史に名を残している。 1439年11月、モンゴルがジェノアへ宣戦したので、黒羊朝も義理参戦した。欧州の多数の小国とブルゴーニュ、クレーヴスの神聖ローマ皇帝とも戦争になるが、黒羊朝の本国が危険にあう事もなかった。
1440年3月、西ではマムルーク=イラク戦争が終結し、イラクは西の2州を失った。この時代はマムルークの全盛期であり、ティムール、オスマン帝国崩壊後のイスラム最強国家といえる。 Hassan' Ali首長も、いずれ拡大を続けるマムルークが黒羊朝を攻撃するのではないかと不安だったと伝えられる。 だが、1446年、マムルーク全土で反乱が勃発し、帝国の崩壊が始まる。
1450年、国庫に金が無くなったのを知ったHassan' Ali首長は、アルメニアとの属国関係を破棄して攻め込むように命じ、50Dの賠償金を取って、また属国にするという暴挙に走った。これも貧乏がすべて悪いんです。
1454年、マムルーク崩壊によって、北シリアの5州が「シリア」として独立。 さらにイラクが失った領土を取り戻し、滅びたエチオピアが独立する(しかしすぐにアダルに滅ぼされた)。
マムルークは再び同盟の使者を送ってきたのでHassan' Ali首長は応諾した。
1459年8月、新領土のAjamとFarsが中核州に昇格した。 これによって、ようやく黒羊朝は次の侵攻が可能となった。Hassan' Aliはペルシアへの第二次遠征を決意し、全軍2万によって、西方の離れ地のHamadan,Luristanへと侵攻する。 キヴァ、ホラサン、モンゴルも参戦。一斉にペルシア領へ侵攻していく。
ペルシアはマムルークとも同盟を結んでいたので、こちらとも開戦となった。しかし、もはやシリアを失ったマムルークは問題ではなかった。
Farsがペルシア軍の突撃によって陥落させられた報を聞いたHassan' Aliは、西方領を包囲中の軍を分割して戦力を集結させ、北のAjamでペルシアとの決戦を行う事にした。
会戦は黒羊朝軍の圧勝で終わった。
そのまま追撃とともにFarsも解放し、主力軍は東方ペルシア領へ侵攻開始。
しかしHassan' Ali首長は、Laristan州の包囲で突撃軍の先陣に立った時、守備兵との乱戦の中、討ち死にしてしまったという。
ペルシアとの戦争中に先の首長が亡くなる事態により、Iskander I世として即位する。 途中、キヴァ、ホラサン、モンゴルが白紙講和で脱落する中、ほぼペルシア全土を占領してから、ペルシア皇帝にHamadan,Laristan,Kermanの割譲と100D賠償金を要求して講和した。
これによって黒羊朝の領土数は12となる。そして以後の歴代首長達は、継承危機と戦う運命となった。 新領土のKermanはスンニ派だったので宣教師が送り込まれ改宗させる。
まだマムルーク、ヒジャーズと戦争が続いていたので、Iskander I世はしばらく待ってから、白紙講和で終結した。
この時代、珍しくハンガリーが強国となっていた。オスマンの圧力が無い為だろうか。 またカスティーリャがアラゴンを外交併合している。 北アフリカではアルジェリアがほぼ統一しつつあった。 北インドではデリーが勢力を確立しつつある。
1469年、カザフが黒羊朝に宣戦布告した。さらにチャガタイ汗国とカンダル君候国とオスマン帝国も交戦となった。だがいずれも戦争能力が20%未満なので、それほど脅威ではない。
領土が繋がっているのは、オスマン帝国のみなので、黒羊朝軍2個軍団は小アジアのオスマン東方領へ向かわせる。
しかし途中でHamadanで反乱が起きたので1個軍団はそちらへ対処。残りの軍団でオスマン領を落とすが、オスマン主力軍1万との合戦では敗退する。 チャガタイ、カンダル君候国との白紙講和は成功したので、首長は戦力の回復を待ちつつオスマン軍と対峙した。
1470年、反撃の体勢が整うと、オスマン軍を撃破し、東方離れ地2州のSivas、Erserumを攻略。 そして講和で2州を割譲させる。これでオスマンは西方のBirsa、Bithyniaのみの小国となった。 それから、同盟主のカザフから120Dの賠償金で首長は講和した。
すぐに、Iskander I世は、新獲得領の2州を属国のトレビゾンドへ無料提供した。
同盟国のモンゴルはこの時期、継承危機によって、新領土7州ほどで同時反乱が起きている。 しかし、どうやら対処できそうだ。
また、黒羊朝のインフレ率は5.7%。生産力が低いので、戦争での賠償金によって喰っている国といえる。
1473年、モンゴルが再び黒海領ジェノアを求めて宣戦布告したので、首長も義理参戦した。欧州の小国多数と戦う。
その間、Iskander I世は中核州となったFars港で、ガレー船3隻による初の海軍の建設を命じた。ペルシア湾に海賊がそろそろ出てきているので、配置する必要が出た為である。
マムルークはシリア=アルジェリア連合によって定期的に叩かれ、かつての勢いを失っていた。
1476年、ジェノアは黒海領をすべてモンゴルに手放し、この戦争は事実上終結した。だが同盟主のヴェネツィアはなかなか白紙講和に応じない。結局、ヴェネツィアが折れるまで3年間戦争が続くこととなる。
1478年、ホラサンがイラク継承権戦争を開始したが、イラク、ティムール、マムルークとの戦争を望まないIskander I世は同盟を破棄した。しかしこれで黒羊朝の威信が-47になってしまう。 バルチスタンもホラサンへ宣戦布告しキヴァとともに侵攻開始。
1480年、ホラサンは、キヴァへ1州割譲し、バルチスタンから2州を得て終戦。周辺国すべてと戦いながら上手くやり抜いたといえる。
10月、Iskandel I世族長が崩御し、Jahan Shah II世が即位。 そして、最初の部族継承危機の内戦が始まった。