Qara Koyunlu。トルコ語で「黒い羊に属する者」を意味するこの部族連合は、14世紀後半よりアゼルバイジャン地方を統治したトルコ系遊牧民の集団である。 そして1399年、3代目首長Qara Yusufが部族を統治していた時、ティムールの嵐が東部アナトリア地方を席捲していた。 ティムール帝国のオスマン、そしてグルジアへの侵攻。それは、黒羊朝にとっても、動乱の時代が始まった事を告げていた。
首長Qara Koyunluは、一つの野心を持っていた。 それは、自らの部族によって、古代ペルシア帝国を復活させ、その栄光を取り戻そう、というものである。 ある日、宰相Iskander Tumushに対して、次のように言ったという。 「宰相よ、我が部族の以後の目的は、ペルシアを復活させようと思う。オスマン帝国がかつてのセルジューク朝の栄光を取り戻しつつあるように、余はその東に巨大なる帝国を築き上げよう!」 宰相は、首長の野心的な言葉に驚きつつ答えた。 「ペルシアでありますか? 確かに我々にはその『可能性』があります。ですが、それには、Laristan,Hamadan,Mazandaran,Fars,Makran,Khrasanのすべてを保有し、さらにすべて自国の中核州にして、戦争をしていない時期になれます。ですが現在、我々が持つのはMazandaranのみ保有。あとの領土はすべて南にあり、それも強大なティムール帝国の占領下であります」 「うむむ。南か。先は長いのう」 「ちなみに、我々はムガール帝国にもなれますぞ。こちらでは、Jaipur,Panipat,Delhi,Lucknow,Agraを保有し、Delhiが中核州で平時に。ですが、インドはちと遠いですな。ペルシアの方が有望でありましょう」 「ペルシアになったら、我々は何を得られると思うか?」 「はっ、ペルシア化したメリットとしてはDagestanの税が1、マンパワーが125上がって、国家の中央集権+2、威信5を得ると予想されます。しかし何よりも大切なのは、我々は『部族国家』から脱出できます。シーア派の神権国家となります」 「そうか。いつまでも黒羊朝は弱体な部族連合のままでいるわけにはいかぬ。ペルシアへの道を進めよう」
そしてQara Yusufは、自らの野心を実現する為の第一歩として、西の正教国グルジアの討伐を決意していた。 だが、この時期の黒羊朝はあまりにも弱く、脆かった。首都BakuのあるMurganを始め、国内の州に要塞が一つも無く、敵軍に移動されたら即占領されてしまう。要塞の建設を考えなくてはならなかったが、その金も無かった。 そのため、初期には金がかかる割に儲からない商売をすべて停止し、軍備に金を注ぐ事になった。 また国内政治は、いずれも中央集権に向かわせていった。 そしてティムールとグルジアの戦争をQara Yusufはじっと見守りつつ、戦力を整えていった。黒羊朝の若者達が総動員され、騎兵2000と歩兵3000の戦力になった。
戦争の前に外交で同盟を作るのが定石。Qara Yusufは北方のモンゴル、南のティムールとの同盟を望んでいたが、なかなかその機会が無かった。まずは首長は、ティムール、モンゴルの汗と婚姻関係を結んだ。さらにティムール帝国から軍の通行許可も貰う。
そして一年後、1400年、早くもティムールは崩御し、摂政政治となった。それに伴い、市場のあるFarsなどで反乱多発。オスマンとの戦争も終わっていないのに災難である。 この時、Qara Yusufはスパイの報告により、グルジア全土が帝国軍に占領されたのを聞くと、軍の動員と開戦を命じた。 彼らは正教国同盟としてモスクワ公、ノブゴロド公、モルダヴィアと同盟を結んでいたが、他国は救援に向かうルートが無く、グルジアの陥落を見守る他なかった。 グルジアは同日、Imereti、Georgiaをティムール帝国に割譲して講和。首都Kartli、Alaniaのみの2州国家へ転落した。 グルジア軍は皆無なので、黒羊朝軍は無人の野を進むように進軍。そして首都Kartli包囲とともに、騎兵で北方のAlaniaへ向かわせ、城壁が無いので即占領した。
1400年12月、首都Kartliは陥落した。Alaniaを割譲させ、50Ducatsの賠償金を取って第一次グルジア遠征は終結した。このお金で首都バクーに城壁を作られたという。Alaniaは『金』を産出する州なので貴重である。 しかし宗教が東方正教なので、すぐにシーア派の宣教師が送られた。反乱率が16%に上がったので、5000の軍全て駐屯させるのを忘れない。
Qara Yusufは、国内全体の宗教政策も進める事にした。Sheikh ul-Islam Officeを作るのを命じ、安定度コスト-5%、年の宣教師数+0.5、宣教コスト+6.0%となった。
しかし戦争はまだ終わらなかった。ノブゴロドが盟主だった為である。公はなかなか白紙講和に応じなかった。
1401年3月、リトアニアがモルダヴィアへ宣戦布告したので、モルダヴィア公から50Ducatsの賠償金を払わせて講和を結ぶ。この金ですぐにGilanに城壁作られた。
この頃、ティムール帝国はすべての州で平均20%の反乱率。旧グルジア州は30%を超えている。東方での反乱は収束しつつあるが、崩壊は避けられなくなった。オスマン軍も内部に進入させている。
もっともオスマン自体、周辺国すべてから攻められて四苦八苦の状況であった。ワラキア=ビザンチン同盟に対してはブルガリア割譲、ロードス騎士団にはAntalyaを割譲(これは珍しい)。勢力を縮小させつつある。
Qara Yusufは、モンゴル、ティムールに対して、黒羊朝内への軍通行許可を与えた。反乱が起きたら、これで彼らにも鎮圧軍を送って貰える。反乱軍に対して諸国で共同作戦するのは大切である。
1402年3月、モンゴルは黒羊朝に独立保証をした。またカザクから同盟の使者が来たので首長は応諾した。
4月、ティムール=オスマン戦争は、オスマンが賠償金35Dを支払う事で終結した。だがそれは両国を徹底的に疲弊させたのみであったといえる。英雄児ティムール晩年の最大の失策といえよう。
5月、Alania住民のイスラム化に成功。
6月にはノブゴロド戦争がようやく白紙講和を強制されて終結した。首長は賠償金が貰えないかと粘ったが、これ以上の戦争の長期化に耐えきれない部族員らによって強要されたという。 ティムールはどこも平均反乱率30%になり、東部は全反乱状態となった。帝国の崩壊は決定的となる。
1404年5月、エジプトのマムルーク帝国から同盟の使者が来たのでQara Yusufは応諾した。またティムール帝国から独立保証される。
11月、Alaniaで15000の反乱が起き、駐屯軍5000は撃破される。またティムール領から反乱軍4000もGilanへ向かってきたが、こちらは撃破した。
Alaniaの反乱は成功してナショナリズムを10年延長された。反乱軍がティムール領へ向かった隙に包囲していくが、反乱軍が帰ってきて激戦となる。その間に、西方の旧グルジア領2州がグルジアへ戻ったかと思うと、モンゴル軍に攻められてモンゴル領になったりしている。 首長は、この苦しい戦いによって、黒羊朝軍の更なる増強が必要と判断し、騎兵3000に歩兵5000にした。 1406年11月に、ようやくAlaniaの反乱は鎮圧された。
そしてこの年、ついに反乱多発によりティムール帝国は崩壊した。旧ティムール帝国領はペルシア、イラク、バルチスタン、ホラサン、キヴァに分割。残ったティムール領は西方アゼルバイジャン周辺と東北のサマルカンド周辺に分離された。
Qara Yusufは、ペルシアの独立を聞くと、「我々が名乗りたかっただけに惜しい。が、ティムール相手に戦うよりも楽になったわ」と答えたという。 勿論、黒羊朝がペルシアになるには、この「ペルシア」は邪魔となる。天に二つの太陽無し、地の二つのペルシア無し。このペルシアは黒羊朝にとって必ず滅ぼさなくてはならない相手といえよう。
1407年8月、黒羊朝はグルジアへ再戦した。ノブゴロド、モスクワ、リャザンの他に、ビザンチン帝国も独立保証していたので戦争となる。 マムルーク帝国は参戦するがカザクは裏切った。短い付き合いであったといえる。
防戦兵の士気が低いのを察知した首長は全軍に突撃を命じ、8日で陥落。 領土は南方に広げたいので、50Dの賠償金と属国にする。それから同盟締結。グルジア王Giorgi VII世は応諾した。 イラクからも同盟の使者が来たので応諾。これでQara Yusufによるペルシア包囲網は完成した。
1408年4月、モスクワ公、リャザン公から75D、ビザンチン帝国から50D、ノブゴロド公から100Dを賠償金で取って戦争を終結した。彼らは戦争疲弊がきついようだ。ちなみに、黒羊朝はずっと0のままである。
オスマンとも同盟の使者が来たので応諾。オスマン帝国は、小アジア、欧州領とも食い散らされて、弱体化している。
こうして満を来してから、8月、黒羊朝はペルシアへ宣戦布告した。同じシーア派なので国民は動揺して安定度0になる。
数日後、西方ティムール領のVanの反乱は黒羊朝に帰属した。これで州が9個になった。
ペルシア侵攻は、ほとんどの州が要塞0なので、順調にすすんでいく。イラク軍も同時に侵攻し、こちらもペルシア軍を撃破する。
しかし、南東端のペルシア首都Hormuzには1万のペルシア軍が駐屯していたので、6000の黒羊朝軍では勝てずに敗退。さらに反乱が多発して、すぐに取り返されたりする。
Farsを反乱軍から奪還し、一時的に首都を押さえたのを見計らって、講和の使者をシャー(皇帝)へ送り、黒羊朝はAjamとFarsを得た。これで黒羊朝は、ペルシア湾への港を確保した。またFarsは市場持ちなので、商人を送り込み、5人にする。 また、どちらの新獲得領も宗教はシーア派なので、それほど抵抗は無い。 ペルシアは東方領と西方のHamadan,Luristanの2州に分離された。西方の2州はペルシア化に必須の州なので、いずれ取らなくてはならない。
だがこれで領土数が11になったので、黒羊朝内で「Incapable Ruler」が発生。全州反乱率+3.0、税収-33%、そして国のBB限界が-20.0になるというトリプル攻撃によって部族員の間に動揺が走った。さらに、いま首長が死去したら、継承危機は避けられない。
ある日、宰相はQara Yusuf首長に向けて、領土を手放す事を求めた。 「残念ながら――我が部族には、これだけの領土は手に余ります」 「余に……獲得した領地を手放せ、というのか?」 「畏れながら」宰相は頷いた。 「陛下だからこそ、この領地数でも統治できているのです。ですが、いま、陛下がお亡くなりになったら、せっかく拡大した部族は、たちまち内戦で崩れ去りましょう」 「これでは、いつまでたってもペルシアになれないではないか!」 「耐えてくだされ……。とにかく『10州以上にする』のは、まだその時期ではないという事です。新たに獲得した領土の民の『心をつかむ事』。それによってのみ、内戦の危機を乗り越えて我が部族は進めるのです」 「心をつかむ、というのか?」 「そう。彼らが我々に心の底から忠誠を誓えるまで、待つことです。人々の信頼を得るには、時間が必要です。それもとても長く」 「……わかった。Alania――金産出州なので惜しいが――と、Vanをグルジア王へ渡そう。連中は属国だ。どちみち我々の戦力となろう……」
こうして黒羊朝は、AlaniaとVanをグルジアへ0Dで売却(事実上の割譲)した。これで領土数を9に落とす。 直後、Incapable Rulerはすべて解除された。 また、賠償金を使って城壁を新領土でそれぞれ建築開始したという。
北方ではモンゴルのほとんどの領土が反乱に押さえられる。部族国家の弱さである。 黒羊朝は、前回のペルシア戦での苦戦に伴い、戦力を12000まで増強した。
1412年4月、ホラサンのバーブルI世が突如、黒羊朝に宣戦布告した。独立保証していたモンゴルやマムルーク、ティムール、オスマンなどが続々参戦。 しかしホラサンとはペルシアを挟んでいて、領土が繋がっていない。ペルシアへの軍通行許可も不可能とのこと。 唯一つながっているのが、北方のティムール帝国であり、ここでのみ戦闘が開始された。サマルカンド周辺にはティムール軍は皆無なので、ホラサン軍はやりたい放題だ。 ホラサンの首都Khorasanは、ペルシア化に必須州なので、いずれ滅ぼさないといけない相手だ。 白紙講和の使者を送り、ティムール帝国の崩壊を防ぐ。ホラサンも応諾した。
1420年9月、英君Qara Yusufは崩御した。黒羊朝を帝国へ向けて拡大させた立役者は、長き眠りについた。 そして息子のJahan Shah I世が黒羊朝の後を継いだ。新たな首長と黒羊朝にアッラーの祝福があらんことを!