プレイレポ /A・E・I・O・U

<序>

 ホーエンシュタウフェン家の断絶と大空位時代を経て、帝国は諸侯が覇権を巡り争う時代へと入っていた。

 この時代、帝国諸侯の中でも特に有力なのは、

 ―皇帝位やボヘミア王領、ハンガリー王領、ブランデンブルグ選帝侯領、ルクセンブルグ伯領を有するルクセンブルグ家  ―ライン宮中伯、バイエルン公領、ホラント等を有すヴィッテルスバッハ家  ―オーストリア公領を有するハプスブルグ家

の三家であり、ドイツ王位及び皇帝位を巡り、血みどろの権力闘争を繰り広げていた。

<アルブレヒト4世(突進公)の治世>

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 アルブレヒト4世の治世を語るにあたって、欠かすことができぬのが、スイス誓約同盟との戦い並びにその余波として行われたミラノ公との戦いである。  事の発端は、曾祖父アルブレヒト2世の時代までさかのぼる。曾祖父アルブレヒトは、誓約同盟との戦いに敗れ、ハプスブルグ発祥の地であるスイスを放棄し、オーストリアの経営に専念する道を選んだ。その後オーストリアは、祖父ルドルフ建設公や、父アルブレヒト3世の精力的な治世の下で、ウィーン市を中心に繁栄を謳歌していた。

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スタート時:ドイツの中では割と大きな勢力。

 しかしスイスとの未だに政治・経済的なつながりが大きく、しばしば小競り合いが国境付近で起きていたのである。  そして、アルブレヒト4世の治世の末期には、ウィーン市の名士が些細ないざこざから、スイス誓約同盟に縁のある者の手にかかるという事件が起き、両国の緊張は高まっていた。

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 折しも皇帝兼ボヘミア王ヴェンツェル(ルクセンブルク家)は、フランス王と戦争中であり、オーストリアが戦費の一部を捻出する(War Subsidies)ことを条件に、オーストリアのチューリッヒ再領有を認めたのである。  こうした背景からオーストリアとスイス誓約同盟、そしてその後のミラノ公との死闘が始まったのである。

 スイス誓約同盟は、ヴェネチア共和国、トスカーナ公、バー(Bar)伯と同盟を結び、アルブレヒトに対抗するものの、諸国間の連携が取れず、さらに内部抗争が起きたこともあり、チューリッヒが再びハプスブルグの手に戻ることに合意せざるをえなかった。

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誓約同盟戦争後:チューリッヒをコア州として手に入れる

 しかしこれに異議を唱えたのが、ミラノ公ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティである。自らをカエサエルの再来だと称し、イタリア統一に野心を抱くミラノ公にとって、チューリッヒまでハプスブルグの勢力が及ぶこと邪魔以外の何物でもなかった。  他方、帝位奪還に燃えるハプスブルグ家にとっては、ロンバルディアやマントバの地はローマへ続く要衝であり、かねてよりその領有を欲していた(missons)。  両者の思惑から、矛を交えるまでさほどの時は要しなかったという。ミラノ公がサヴォイ公を攻めた間隙を突き、アルブレヒトは2万5千(うち騎兵1万5千)の兵をミラノ、ヴェローナ、ブレッジャへと三方から進めたという。  ミラノ公はこの急報が耳に入るや、サヴォイ公と早々に和平を結び、兵を反転させ、オーストリア軍とミラノ軍はミラノ近郊で戦端を開いたという。  この戦闘は苛烈を極め、ミラノ軍の傭兵の矛がアルブレヒト公の横腹に突き刺さり、公は数日後命を引き取ったという。  しかし、公の死にもかかわらず戦線を公族や将軍が必死に支えたことや、他のイタリア諸国がミラノ公へ攻め入ったことから、戦争自体はオーストリアに有利に運んだ。  最終的にはジャンのミラノ公領は解体され、ミラノ近辺を除いた所領の大部分がハプスブルグ家やイタリア諸侯のものになり、ピサの独立が承認された。

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ミラノ戦争後:ミラノ併合までリーチ。BBRは+12

 迂闊にも、敵の矛に死したアルブレヒトは後世から突進公と呼ばれている。


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