彼はその日も栄光に輝いていた。
彼の生涯を彩ってきた様々なもの、
枢機卿の紅の衣(紋章) ヴァランスの公爵位(MEIOUでのヴァレンティーノの紋章) 教皇軍司令官の地位(紋章)、 中伊の諸地域の支配者の座(ウルビーノの紋章)、
ナバラ王家の姫君、 美しき妹、 才気の片鱗を見せる後継者である「甥」、
等々はその日も変わらず彼とともにあり、 太陽の光の如き彼の輝きも持続するものと思われた。
その月、彼は自身の影響下にあったシエナ市が代官を追放して 独立の動きを示したことに対しての懲罰行動を計画していた。
その際に予想される最大の障害、 即ちシエナが未だに公式には神聖ローマ帝国に所属していることから、 皇帝が上位の君主権を主張して介入して来た場合の対応について、 永年の同盟者であり、傭兵隊長として彼の軍の傘下ともなっている マントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガと討議することとなった。
そうして1523年の6月2日、 側近はシエナ攻めの本軍の指揮をとらせるために残し、 少数の小姓のみを供としてマントヴァ近郊の侯の陣営を訪う。
―― 彼の栄光はその日突然に終わった。 陣営に到着して後の死に様は伝えられていない。
後に検分された死体には、激しい斬り合いをしたと見えて、 23箇所もの傷跡が残っていたという……。