1409年、新帝Ioannes VII世は、再びオスマン帝国と戦う時期が来たことを悟った。 しかし今、オスマンはエジプトのマムルーク帝国から独立保証を得ていた。強国二つを同時に相手にする余裕は帝国には無かった。 そこでオスマンの同盟国の一つであるモンゴルに帝国は宣戦布告した。モンゴルが連合盟主となる。彼らは遠いので戦争には事実上参加できないだろう。モンゴルは今、モスクワ公国から激しく攻撃されている最中である。
もっとも、帝国はCandarとチャガタイ汗国とも戦争になった。チャガタイは無視してもいいが、小アジアのCandarは厄介になるかもしれない。
だが、数日後、皇帝Ioannes VII世は唖然とする報告を受けた。 「なんだと? セルビアもモンテネグロも、予を見捨てるというのか?」 「ハッ。両王とも、参戦を拒否。同盟も白紙に戻すとの事です」 「まったく見下げた輩どもですな。ですが、我々とアルバニアだけでも、この戦い、充分に勝てましょう」と、宰相Elipidosは若き主君を慰める。 「そうだな。では、計画通り諸軍団をNis,Bulgaria,Silistriaへ侵攻させよ」
オスマン首都Edirneは、すでにギリシア反乱軍によって占領されていた。帝国はそれ以外の欧州領へ向けて侵攻する。
そして4月に入り、諸州の包囲戦が順調に進んでいた頃、帝国はさらに悪い知らせを受ける。 モンゴルがモスクワ大公から2州を得て戦争を終結。帝国に対する戦争に専念できる体勢となったのである。まだ1399年の時代、モンゴルは強大な勢力である。
8月、Candar軍4000がコンスタンチノープルを包囲。すぐに皇帝Ioannes VII世は騎兵を集めた6000の精鋭軍で迎撃に向かい、撃退する。
そして黒海北岸からモンゴル人1000のゲリラ部隊がSIlistriaへ上陸してくるが、これも皇帝打撃軍によって全滅させる。Silistriaは10月に陥落した。
12月、帝国はセルビア王と再同盟を締結した。
そして翌年2月には、初期の目的である3州すべて占領した。しかしオスマン海軍の海峡閉鎖によって、こちらも小アジアへ向かわせる事ができない。
「やはり小アジアには向かえぬか……」 皇帝は主力軍とともにコンスタンチノープル宮殿へと帰還していた。宮殿の窓よりアジア側の対岸を眺める。ほんのわずかな距離。だが、今の帝国にとってアジアは無限の距離でもあった。 「すでにスルタンとの内々の取引では、向こうは1州を渡す用意は出来ているとの事です。アジアでの反乱に連中は手を焼いているようです」とElipidos。 小アジアでは2州が反乱軍の手に落ちていた。 「駄目だ。それでは、まだ足りぬ。欧州側領土全てを回復できるまで、我々は粘るのだ」 「幸い、こちら側の戦争疲弊は0%です。向こうは16%超えてますが」 「とにかく、我々は負けていない。今はそれで充分だ。軍はアジアへ渡る機会を覗うのだ」
3月、アルバニアが戦争脱落。帝国にとって、もはやどうでもいい事である。
6月、モンゴル人1000が再びモレアに上陸。帝国軍9000で迎撃に向かい、撃退する。ギリシアも海上閉鎖されているので、ヴェネツィアから通行許可を貰い、帝国軍は全て陸路で進んだ。
だがCandil軍が3000がコンスタンチノープルを包囲。また全軍北上して撃退。モグラ叩きを続ける。こちら側からアジアへ侵攻できない以上、オスマンの崩壊を待つしかない。
さてその頃、セルビア王はまたミスをしていた。欧州に深入りした結果、ポーランド、オーストリア、ハンガリー、アクィレイア軍に首都を占領され、コソボへ逃げ込んでいる。 その後、セルビア王は15ducatsを払う事で連合軍と講和した。
皇帝Ioannes VII世は、ビザンチン海軍の再建を海軍に命じた。6隻、できれば8隻のガレー艦隊があれば海峡のトルコ海軍を突破できる。コンスタンチノープル造船所では2隻まず建造が開始された。海軍再建が帝国の最優先となった。
8月、Candarに帝国は1ducats払う事で講和した。チャガタイ汗国とも白紙講和。あとはオスマンとモンゴルのみとなった。
そしてトランシルヴァニアから同盟の使者が来たので応諾する。彼らは3州に広がり、東欧では中堅国に成長していた。帝国の新たな同盟者となった。
1412年、開戦から3年がたったものの、戦況はまったく変わらない。帝国の戦争疲弊は相変わらず0%。向こうは18%となっている。 だが8月、ついに変化が訪れる。小アジア対岸のBithyniaにも反乱軍がやってきた。皇帝は主力軍に警戒を呼びかける。
1413年5月、皇帝はスパイより報告を受ける。 「ついにBithyniaも反乱軍の手に落ちましたぞ」 「そうか……。オスマン海軍はどうなったか」 「ハッ。海峡警備艦隊から東方へ撤退していきました」 「では、今はもう海峡は、渡れるのだな?」とElipidosは確認する。使者は頷いた。 「全軍に命ぜよ。この機会を逃さず、アジアへ渡るのだ」 皇帝は軍に命じた。帝国軍9000は一斉に海峡を渡り、久しぶりにアジアに軍を進めた。反乱軍の支配するBithyniaは200人の守備兵しかいないのを知ると、皇帝は全軍を突撃を命令。わずか11日でBithyniaはビザンチンに占領された。
そして南下した帝国軍はBursaで2000人にまで低下していたオスマン主力を撃破し、そして撤退したBithyniaでの追撃戦で全滅させる。
12月、セルビアがモンテネグロへ侵攻。さらにワラキアとも戦争になる。参戦の使者が来るが、皇帝は冷笑したのみという。今はそんな余裕は無い。
小アジアでの帝国軍は順調にBursa,Anatoliaと落としていく。
1414年、Smyrnaを占領。しかしAnatoliaの帝国占領地で反乱軍が蜂起したという知らせを受け、皇帝Ionnes VII世は、もはやこれ以上の戦いは、不要に苦労するのみであると考えるようになった。 皇帝は講和の使者をスルタンの元へと送った。戦勝点59になっているので、小アジア側のBithyniaを帝国は要求した。アジアへの橋頭堡を確保する事で、以後海峡突破に苦労せずに済むのが大きい。その代償としてSilistriaは諦め、欧州側のBulgariaとNisのみを得る事にした。 そして苦境に立たされたトルコ人らに断る気力は既に無かった。
2月9日、ビザンチン帝国とオスマンは単独講和を締結。すぐに同盟主のモンゴルとも白紙講和をした。
直後にオスマンでついに革命が起きた。オスマン首都Edirneも東ローマ帝国への復帰を宣言(オスマンの新首都はアジア側のAnatoliaへ移転した)。そして我々はトルコ文化も継承した。
ここまでで、帝国の悪評はまだ0! 祖国回復戦争の大義である。
帝国は小アジアに初の領土を得たが、それは初のイスラム領でもあった。ずっと暇だった宣教師達が初めて送られ、年に8.8%の改宗チャンスを得る(この改宗システムもINの変更点。一度送ったら自動的に継続して行われるので、かなり楽ちんになった)。もっともそれによって、反乱率も上がるが、ナショナリズムはここにも無い(ここはビザンチンの中核州でもある)ので、それでも5.3%程度である。
アテネのヴェネツィア領も反乱軍が占領した。ひょっとしたらヴェネツィアと戦う事もなく得られるかもしれないと皇帝は期待した。たとえ独立国が誕生しても、即座に宣戦布告して併合するつもりであった。
ビザンチン帝国海軍も8隻のガレー船によって再建された。11隻のオスマン艦隊に対してまだ劣っていたが、一時的にも海峡の制海権を得るくらいは出来るようになった。
そして帝国はNational DecisionのReestablish the Theme Systemが可能となった。8個以上の都市をもって皇帝の管理、軍事スキルが6以上という条件で、マンパワー修正が+25%になる優れものである。皇帝は実行を命じ、伝統の制度を回復。帝国の復興はより加速される事となった。
1416年2月、Bithyniaのギリシア正教への改宗は完了した。
再び混乱が続くオスマンに追撃戦を行う。皇帝Ioannes VII世は、第三次対オスマン戦争を開始する事にした。
1416年12月16日、帝国はオスマンに宣戦布告。モンゴル、Kazakh、Khorasanとも交戦。さらに独立保証をしていたマムルーク帝国とも戦う事となる。 アルバニアとトランシルヴァニアも帝国側で参戦。敵側の盟主はマムルークが務める。
欧州側に残ったオスマン最後の領土Silistriaに2000の帝国歩兵が、残りの帝国軍主力8000はオスマン新首都(あるいは旧首都というべきか)Anatoliaへ向けて進発した。Bayazidの率いるオスマン軍主力5000を軽く撃破し、包囲に2000の歩兵を残して、西に撤退したオスマン軍をさらに追撃。
そして各地で追撃戦を続けながら、西部沿岸部を抑えていく。 またBithyniaで兵力をさらに動員していった。
1418年4月、モンゴルと白紙講和。
11月、敗戦したセルビア王国はハンガリーの属国となった。東欧ではハンガリーの強大化が最も注意しなくてはならない事態となった。 12月21日、騎兵のみの皇帝打撃軍によって追撃の往復を延々と続けた結果、ようやくオスマン軍を全滅させる。
1419年3月には残りの東方のオスマン軍も全滅。
7月、オーストリアとジェノアから同時に同盟の使者が来たので帝国は応諾した。 そしてこれが後のギリシア解放戦争の布石となった。
9月、全てのオスマン領を占領し、帝国は第三次解放戦争を終結させた。
小アジアの沿岸部を全て帝国は得たので、オスマン海軍はもう帰る場所を無くした。Angoraが飛び地になってしまったので、帝国は直ぐに南のKaraman国を攻撃し(彼らはどことも同盟を結んでいなかった)、2州を占領してKonyaを割譲させて講和。領土を繋げる。また盟主のマムルークに対しては25Dacutsを払い、講和した。
そして新たな5州にそれぞれ東方教会より宣教師が派遣され、再キリスト教化が開始された。 帝国の戦争疲弊は0、悪評も0.98/28.00。まだまだ戦争を行う余裕がある。
そして帝国の目は西方へと向けられた。