カンガルーはいない カンガルーはいない/五大教会奪回

マキシミリアン3世

行政 5 外交 6 軍事 8

1496年の勢力図
即位直後の版図

 1450年にTOP10にいた国家のうち、ブルゴーニュ、マムルーク朝、キプチャク汗国、ペルシア、オランダが順位から陥落している。  豊かなドイツを領有している割にポーランドの収入が低い。調べてみると、暴動-30%、中央集権-20%、非同族文化-30%、官僚制の拡大-5%など、マイナスのオンパレード。そりゃ、収入が増えないわけだ。

国名収入陸軍海軍交易生産統治人的資源兵力1450年収入人的資源兵力
オーストリア76.2128101111101K55K 52.424K22K
カスティーリャ61.810101110938K82K 35.428K45K
フランス53.3101011111095K82K    
ポルトガル51.310101111911K33K 20.0  
イングランド46.6101011121130K38K 27.721K44K
ビザンティン帝国39.18888753K16K    
リトアニア29.07777754K53K    
アラゴン28.810101111929K26K    
バル22.31110121410      
ヴェネツィア21.611111011913K18K    
モスクワ21.48887637K33K 18.030K28K
トランシルヴァニア21.18799622K26K 19.145K53K
アルザス21.110101215108K19K    
チュートン騎士団20.91091210913K19K    
スイス20.411111211108K16K 14.9  
ポーランド20.010898743K46K 15.019K25K

イェルサレム独立

宮廷顧問

 ボヘミアのプラハ大学は、ヤン・フスが学長を務めたように神学が有名であり、他に医学や法学の上級学部がある。  この大学にフリードリヒ・シュタイガーと言う学生がいた。  この学生は、神学・法学・医学のいずれも人並み以下であり、当然ながら卒業できなかった。  そして、金が無い、つてが無い、学力がないと三拍子揃った中退男を雇う国はどこにも無く、王侯や豪商の子弟の家庭教師で生計を維持した。  1492年に、神聖ローマ帝国皇帝マキシミリアン2世の子供でマキシミリアン3世の家庭教師になることができた。相手としては、最高のレベルであり、万が一寵愛を得られれば、その後の出世もありえる。  ところが、とんでもない食わせ物だったのだ。

 10歳の少年だが、教えによる学問を否定した。  そして実践主義を主張し、教師や自分の家臣を巻き込んだ。

 商人の格好をして、実際に各地に出向いた。  仕入れから販売まですべてを行い、赤字の者は、給料から赤字分を差し引かれた。

 パリまで興行だけで旅をした。旅芸人と同じである。  その日の食事に困ることもあり、途中で餓死や病死した者もいた。

 荒地に作った無人集落の見取り図を作った。  翌日、砲兵隊が無人集落を攻撃した。  破壊の様を近くで見学し、破壊された集落を見取り図と現地比較した。不発弾を踏んで死亡した者もいた。

 フリードリヒが気がついた時には、彼以外の教師は誰もいなかった。逃げたのである。

 1495年。マキシミリアン3世は、フリードリヒと家臣達を呼んだ。  それぞれに、一袋の砂金を渡し、「他国がオーストリアをどう思っているか」調べて来いと命令した。

 フリードリヒは、吹っ切れた。この金は退職金だ。  彼の従兄ハンスは、ローマ教皇庁で働いており、アレキサンドリアの大司教に出世していた。  彼に頼めば、仕事の一つや二つくらいあるだろう。  安易な考えでアレキサンドリアに渡った。

危険な地域

 アレキサンドリアは、イスラムの出口である港町で、ウィーンよりも栄えていた。  キリスト教化を進めているが、モスクなどイスラム教の施設は、住民感情やマムルーク朝の反乱状態を考慮して破壊することはできず、好立地のため教会や政府庁舎、軍の司令部などとなっていた。  アレキサンドリア教会も、町で一番大きなモスクのドーム天井に十字架を掲げただけであった。

 ローマ教皇が指名した大司教はエジプトの混乱を目の当たりにして逃げ帰った。ローマ教皇は新たな大司教を任命しようとしたが、逃げ帰った大司教の話を聞いた候補者達はすべて辞退し、コネもつても無い30代後半のハンスが選ばれたのであった。  ローマ教皇側が大司教を選定するのに手間取ったため、先に到着したアレクサンドリア総主教*1が教皇猊下として君臨していた。  さらに、プラハ大学*2の卒業生が大挙し、ローマ教皇の権威性を否定し、五大教会対等説を唱えていた。  フリードリヒのプラハ大学の同期も、大学時代あれほど聖書に熱中していた彼らが、過激派となっているのに驚いた。ハンスがプラハ大学を「革命家の量産基地」と呼ぶ理由がわかった。  東西教会の対立がアレキサンドリア、イェルサレム、アンティオキアの開放でさらに加速したのである。

イェルサレム建国!!

 フリードリヒは、イェルサレムまで足を伸ばした。  イェルサレム教会は、ローマ教皇と教皇位を争い敗れたロドリーゴが教皇を名乗っていた。  ローマ教皇のライバルであったことから、ローマ教皇の権威性を否定しているが、五大教会対等説ではなく、イェルサレム教会優位説が主流であった。  イェルサレム教会優位説は、神聖ローマ帝国やオーストリアの支配も否定し、独立の気風が強かった。  フリードリヒは、五大教会はそれぞれ思惑があり、大きく政治が動く気配を感じた。

 フリードリヒは、アレキサンドリアに戻りハンスに別れを告げた。  集めるつもりは無かったが、面白い報告ができそうだ。

イェルサレム独立

なぜにヴァロア朝

 マキシミリアン3世の元に返ったフリードリヒは、アレキサンドリアやイェルサレムでの話しをした。  1496年に即位したマキシミリアン3世は、イェルサレム王国の建設について検討した。  この際に、フリードリヒの意見が役に立ったことは言うまでもない。

 イェルサレム国王に選ばれたのは、フランス国王ルイ11世の異母弟アンリである。  ルイ11世は破門の身であり、ローマ教皇とヴァロア朝は対立関係にあった。  さらに、野心の強いアンリとルイ11世の仲は最悪であった。

いきなりやるかね

 アンリは、イェルサレム国王になると同時に、イェルサレムの民にフランス文化を強制した。  フランス王ルイ11世に対し、異常なまでの対抗心を示すのであった。

イタリア王

イタリア重視

 マキシミリアン3世は、後世イタリア王と呼ばれている。  これまでの十字軍政策を見直し、投資をイタリアに向けたことが理由である。  フリードリヒがマキシミリアン3世に献策した結果といわれている。

「陛下。  私はアレクサンドリアの商人からヨーロッパは胡椒の為に、イスラムに喜捨を行っていると言われました。  これ以上、(ヨーロッパからイスラムへの)銀の流出を止めるためにも、オーストリアで産物を作る必要があります。」 「フリードリヒ。具体的な策はあるのか?」 「イタリアやハンガリーでは織物が生産されていますが、あくまでも各家庭での副業であり、品質にばらつきがあります。  そこで、この地に織物工場を建設し、均質な製品を作り、ヨーロッパやイスラムに輸出したいと思います。」

マントヴァ公会議

チョーザレでなく親父か

 1506年に始まったイタリアの紛争は、教皇派と皇帝派に別れた。  1507年にロマーニャの地で両軍の主力が激突した。  十字軍など戦争に慣れている皇帝軍が3倍の兵力を効果的に運用し、教皇軍に完勝した。  教皇の息子ヴァレンティーノ公ことチェーザレ・ボルジアは戦死し、教皇アレキサンデル6世も皇帝軍に捕らえられた。

 この戦いの後、マントヴァで公会議の開催を宣言した。

 マントヴァ公会議は1508年に開催された。  聖界ではローマ教皇、イェルサレム教皇*3ロドリーゴ、アレキサンドリア教皇代理*4、世俗では神聖ローマ皇帝マキシミリアン3世、フランス王ルイ11世、カスティーリャ王ラミロ3世、イギリス王オーガスタスなどとビザンティン帝国皇帝かつコンスタンツ総主教のデメトリオスが参加した。、  この公会議では、ローマ教皇の権威の優越性の否定とローマとアンティオキアの大主教の選出が主議題であったが、1年経っても、参加者の間での妥協が見出せず、無駄に月日が流れた。  特にイェルサレム教皇とビザンティン帝国皇帝が対立した。アナトリア*5の領有でビザンティン帝国と争っているカスティーリャと連携したため、事態がさらに深刻化した。  事態が動き出したのは、アレキサンドリア総主教ことアレキサンドリアの教皇が亡くなったことである。遺言で教皇代理として会議に参加しているハンスを後継教皇に指名していた。ビザンティン帝国はアレキサンドリア総主教の正当性を、ローマ教皇はかつてハンスを大司教として指名した経緯もあり、さらにイェルサレム教皇に対抗する意味でも、ハンスのアレキサンドリア教皇の承継を承認した。

教皇の降格

 代理の取れたハンスは、昔の上司であるローマのユリウス2世にローマ教皇の権威の降格を認めることを条件にローマ教皇アレキサンデル6世の廃位とユリウス2世のローマ総主教就任を提案した。  イェルサレムの自称教皇は、自らが兼任することを主張したが、対立するビザンティン帝国皇帝がユリウス2世を支持し、ユリウス2世が初代ローマ総主教に就任した。  これにより、五大教会の各長を総主教とし、それぞれ対等である事が認められた。  空席となったアンティオキア総主教について、ローマ教皇、ビザンティン帝国、イェルサレム教皇の影響に無い、元アヴィニヨン教皇が総主教に選出された。

 マキャベリは、最大の勝者はアレキサンドリア教会、最大の敗者は、廃位したアレキサンデル6世とイェルサレム教皇ロドリーゴであると述べている。

 イェルサレム教皇ロドリーゴは、失意のため帰国の途中に死亡した。  イェルサレム国王アンリ・ヴァロアが総主教を兼ねる事となった。


*1 ギリシア正教のアレクサンドリア総主教 東西教会の分裂で東方の総主教は東方教会が継承している
*2 オーストリアの支配でドイツ語が主流になったが、思想はフスの流れを汲んだままだった
*3 厳密には総主教 本人が自称しているだけである
*4 アレキサンドリア教皇が病気のためナンバー2のハンスが代理出席
*5 現在のトルコのこと

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