オスマントルコは、急速に勢力を拡大しアナトリア半島を統一し、1453年には コンスタンチノープルを陥落させ、東ローマ帝国を滅亡しヨーロッパに進出した。 その後も、勢力を拡大し、1454年にはセルビアを滅亡に追いやり、バルカン半 島への足がかりを固めた。 オスマントルコのバルカン半島への浸透に驚異を覚えたローマ教皇は、ハンガ リーからクロアチアを奪取したオーストリアに、バルカン半島の権益と引き替え にオスマントルコ討伐の十字軍を命じた。
しかし、オーストリアは、ボスニアに進出したヴェネツィアとバルカン半島 の権益を巡り戦火を交えることとなった。 この戦争で、バルカン半島に戦力の空白域が生じたため、オスマントルコは、 易々とバルカン半島に進出できた。
これに対し、ポーランドがローマ教皇の呼びかけに賛同し十字軍に参加した が、時すでに遅く、オスマントルコのバルカン半島支配が確定した。 この時代の歴史家マキャベリは君主論の中で「君主は、天下の大事には自国 の利害を無視してでも、立ち向かうものである。」と述べ、オーストリアの行 動を非難している。
百年戦争が終了したフランスでは、中央集権化を進めフランスの統一を進め た。さらに、1483年に即位したシャルル八世は、フランス領内に残るイギリス 領の回復を目指し、イギリスに宣戦を布告し、優勢に戦いを進めたが、十年後 に戦争を始めたシャルル八世が急逝したため、現状維持で講話した。 (十年戦争・鴨居の講和) 百年戦争終結で職を失ったイギリス人傭兵が、新天地を求めて北回り航路で アメリカ大陸を目指し1459年にニューファーンドランドに到達した。この後、 カナダ地域への植民を進めていくことになる。
1457年にグラナダを陥落させイスラム国家をイベリア半島から追放し、その ままモロッコに侵攻をした。また、カスティーリャは1466年にギアナに植民を 開始し、ブラジル北部やパナマ方面に植民を開始する。
ロシアでは、キプチャク汗国の間接支配(タタールのくびき)が主であった が、この時代にイスラムから法・経済・官僚機構などの制度が流入し、中央集 権化に成功したカザンが勢力を拡大した。1472年には、キプチャク汗国を倒し タタールのくびきから脱し、イスラム化したモンゴル民族による直接支配に移っ ていく。 ペルシャでは、トルコ民族の白羊朝の支配から脱したペルシャが、1458年に ペルシャを統一し、中央アジアの覇権をティムールと争うことになる。